類聚メモ帳PART2

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本興寺の津波供養碑(長生村)【後編】

さて、目的の元禄地震津波供養碑は境内西側に広がる墓地の一角、ちょうど子院の蓮華院と向かい合う道に面した場所に建っていた。 元禄地震は江戸時代の元禄16年(1703)11月23日未明発生した地震で、地震の規模を示すマグニチュードは推定で7.9〜8.2。震源は房総半島の南端・野島崎の沖合と推定されている。この地震大正12年(1923)9月1日の関東大震災(大正関東地震)と同様、相模トラフで発生した海溝型地震であると考えられている。

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◆PART2 元禄地震の被害

内閣府防災情報のまとめをみるに元禄地震の被害の中心は小田原と房総半島外房である。小田原は大火災が発生したというが、房総半島外房においては震源に近く、また九十九里浜での津波被害が深刻であった。 同サイトのまとめによると、地域別に見たときに最大の死者数を出しているのが房総半島であり、そのほとんどは津波被害によるものと考えられる。 ここ一松村も津波に遭い、甚大な被害が出た。死者は約700名に及んだという。そこで寺では「元禄津波水死者大位牌」を作り、死者約700名の戒名を刻んでこれを供養した。 また、供養碑がつくられ、ともに今日まで伝えられている。

◆PART2 元禄津波供養碑

供養碑は二つある。一つは山形の頂点を持つ板状の供養碑だ。

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傍らにある長生村のたてた案内板には次のように書いてあった。

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長生村指定文化財
津波供養碑(本興寺
元禄十六年(一七〇三年)の津波は近世において、九十九里沿岸を襲った最大の津波で一松郷内の人畜の被害は甚大であった。一松地域には津波供養碑は数多いがこの碑は一松郷初崎村浦名主東条市郎右衛門が一族の水死者の冥福を祈って建立したもので代表的な板状供養碑である。
一八名の法名が刻まれ子供の法名が多い。裏面に津波の状況が刻され貴重である。
「維(これとき) 元禄十有六年十一月廿二日夜 当国一松に於て大地震有 尋(つい)で大波揚(あが)る 嗚呼天乎是時民家流れ 牛馬斃死(へいし)す 死人は幾千萬余りと数を知らず・・・」
長生村教育委員会

 

この案内板を帰ってから読んでハッと気づいた。

「裏面に津波の状況が刻され貴重である」

 

裏面に……か…… 見なかった………

 

当然、写真も撮っていない。 正直、見学中はこの案内板のさす供養碑がどれだったのかわからなかったのが敗因であった。 返す返すも残念である。 なお、この供養碑には紀年銘がないので造営年代はわからない。千葉県の関係サイトによると、宝永(1704年~1710年)か正徳(1711年~1715年)の頃のものとされている。

 

◆PART3 もう一つの供養碑

境内にはもう一つ供養碑がある。しかし、これは2014年撮影のグーグルストリートビューを見るに、案内板ともどももともと山門横にあったようだ。

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正面の碑文は「南無妙法蓮華経水死霊」と読める。法華宗なのでお題目である。 こちらにも長生村による案内板があった。

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長生村指定文化財
元禄大津波の供養碑及び大位牌(本興寺
元禄地震(元禄十六年十一月二十二日一七〇三年)「宵より雷強く、夜八ツ時地鳴る事雷の如く」大地震が発生(推定M八・二)それに伴い大津波が襲い、相模から武蔵、安房、上総までを直撃、大きな被害をもたらした。
九十九里沿岸も壊滅的な被害を受け、当時の一松村では津波による死者約七百名(鷲山寺の記録では一松村郷の死者八四五名となっている)全員の戒名を大位牌に刻み本興寺において盛大な供養を営んだ。
長生村教育委員会

解説板にある「鷲山寺の記録」とは、隣の茂原市にある同じ法華宗本門流鷲山寺(じゅせんじ)にある津波供養塔基壇部にある刻まれた元禄地震による村別の水死者の数のことである。 こちらも気になる。

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正面から向かって左側の側面には「元禄十六〔癸未〕天十一月廿三日」とある。しかし、これは地震津波)の発生日であって、この石碑の造立日ではないだろう。 ※〔 〕内は割書き

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続いて右側面には「是人於仏道決定無有疑」と刻まれている。

法華経の経文にある文言である。 「是の人仏道(ぶつどう)に於(おい)て決定(けつじょう)して疑有る事なけん」と読む。 法華宗に限らず供養石碑には、こういうお経のありがたい一文を書くのが定番である。 私が好きなのは念仏系の板碑(いたび)などにある「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨(光明は遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取し、捨てたまわず)」 しかし、今回のこの経文は日蓮宗法華宗で特に重視される文言のようだ。

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裏面には造立者が書かれている。「施主一松惣郷中と読める。その文字の下部両脇にも何か刻まれているが、写真を横から撮ったため、判別できなかった。 題目供養塔の両側には、近代に入って建てられた供養塔が存在する。

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向かって左側には「元禄大津波溺死者之精霊参百回忌供養塔 一松山 四十三世 日範(?)」 右側には「元禄十六年大津浪本村死者八四五人二百五十年忌供養塔 昭和廿七年十一月廿三日営之 一松■題目講中」とそれぞれある。 右側の塔の死者数は茂原市鷲山寺津波供養塔によるものを採用しているようだ。よりによって自分の寺にある大位牌の数は信じないのか。 そして、題目供養塔と近代供養碑の間には如意輪観音の石像が。

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紀年銘があるが、写真ではよく読み取れなかった。 石碑なんかの碑文は写真で撮っておいて、あとで読もうと思っても読めない場合が多い。 今回もまさにそうだった。 拓本をとるわけにもいかないが、それでも現地で目で見て判読したほうがよさそうだ。 なんか地方によってはこの石像の如意輪観音像は、「歯痛さま」とて歯の神様(歯が痛むときに拝むとよい)とされているところがあるんだとか(一松村がそうかは知らないが)。 完全にポーズによるものであろう。まぁ、民俗的な習慣に過ぎないが。

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こうしていると、なんともまぁ遠い昔の他人事を眺めているような気分にもなる。 しかし、2011年の東日本大震災による津波被害を思い出すと、どうもこの九十九里沿岸に残る津波供養塔たちは他人事ではなくなってくる。 一つの村からある日突然、約700名以上の人々が消えてしまったら、人々は何を考えるのであろうか。 それが江戸時代であったとしても、平成であったとしても、津波で亡くなった人はそれぞれ誰かの大切な人であったわけだから…… ここに残る古びた供養塔に、そんな思いが残されているような気がした。

(おわり)