類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

橘寺(明日香村)

仕事を辞めたい、と思った(何回目?)。しかし、本年はいよいよ今年限りと思い、例によって再び聖徳太子の御前に額づいてその思いを吐露したいと思った。前回は播磨の法隆寺荘園の旧地、斑鳩寺に向かい、それもやはり年度の終わりが近づく去年の3月のことであった。今回は太子がお生まれになったと伝わる橘寺にやってきた。果たして太子は今回の旅で私に何を与えてくれるのだろうか。

明日香村の観光はレンタサイクルが主流らしい。

近鉄吉野線の飛鳥駅前にはいくつものレンタサイクル屋さんが並ぶ。そのうちの一つから電動自転車を借りて、妻とサイクリング。

高松塚を見学してさらに走ると、「聖徳太子御誕生所」と書かれた石碑と地蔵尊が建っている。

道路を挟んで川原寺の跡を前にしたその場所はとてものどか。太子がお生まれになった場所はここかとしみじみと感じ入る。

 

総門はこじんまりとしている。拝観料を払い中に入る。

「こんにちは。大人2枚お願いします」

そういって千円札を出すと、風で差し出した千円札が飛んだ。

「あらあら」

中にいたおばさんが慌てて千円札をキャッチする。

「今日はよいお天気だけど、少し風が強いわね」

そんなのどかな会話がほのぼのとさせてくれる。

境内に入ると…

咲きかけの桜が美しい。この時期の奈良の旅はこれがたまらない。

境内の一角に3つの石塔が並んでいた。中央の石塔には「大乗妙典」と書かれているが、その向かって右側の石塔は「勝鬘経一石一字写経塔」とある。

勝鬘経と言えば、大乗経典の一つであるが、日本においては聖徳太子天皇の御前で講じた(いわゆる聖徳太子勝鬘講讃)ことが聖徳太子の多くの伝記に見えており、また『三経義疏』の一つとして太子による注釈書(伝)もあるのだが…

その石塔の台座に「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の文字が見える。

阿弥陀如来様のお光は 世界を隅々まであまねく照らし 念仏を唱える衆生をすくい取って見捨てることはない、という意味)

仏説観無量寿経」の中に見える一説で、ここだけ切り取って浄土信仰、念仏信仰で特によく唱えられるものだ。橘寺は天台宗の寺(ちなみに太子の御廟がある叡福寺も天台宗)で、なぜ浄土系の文言があるのだろうと、初めは思ったのだが…

その答えは隣にある像で容易に想像できた。これは親鸞である。

親鸞は太子信仰に篤く、3回も聖徳太子の夢告を受けている。太子を深く慕った親鸞に関係する石塔ということだろう。

こちらの観音堂には如意輪観音が安置されている。

古代にはたくさんの堂宇が並び、たいそう寺勢を誇ったであろう橘寺だが、平安時代後期に火災に遭った上、室町時代多武峰の宗徒とケンカをして焼き討ちにされ、なんと再建は近世末期だったそう。

今ではとてもこじんまりとしたお寺だが、それでも聖徳太子ゆかりの地、それも誕生の地としての遺跡は伊達ではない。

叡福寺や斑鳩寺に共通した雰囲気があり、聖徳太子の魂が今でもいそうな気配がする。

はて、ここで問題なのは聖徳太子は一般に観音の化身と考えられ、その正体は救世観音であったとされている。だから法隆寺にある有名な救世観音像などが知られているわけだが、どうも平安時代までにその正体は観音は観音でも如意輪観音と考えられていたようだ。中世に失われた四天王寺の本尊も、法隆寺聖霊殿の本尊も、磯長の叡福寺の本尊も、そして橘寺の観音堂にある観音もやはり如意輪観音なのだ。ああ、そういえば斑鳩法隆寺にほど近い中宮寺のあの有名な弥勒菩薩も信仰上は如意輪観音と伝えられていた。

 

一方、本堂たるこちらの太子堂には聖徳太子自身が本尊として祀られている。なお、内陣を拝観し、見ることが可能である。

その姿は勝鬘経講讃のお姿である。中世以降になってくると、観音像以外にも聖徳太子そのものの造像が盛んになってくる。この太子堂のお姿も室町時代の造像のものである。

太子の御前に正座して祈った。この先の歩むべく道……迷いの中にある自分をどうか太子がお導きください…と。

 

されど播磨の時と同じように太子は何も答えない。長い長い祈りの末、ようやく私は堂を後にした。

もう一度、来い……ということであろうか。

されば、こたびのことの決着がついたら、再び橘寺や叡福寺に赴いて聖徳太子に報告しなければなるまい。

そう思った。

 

太子堂の前には太子の愛馬「黒駒」の銅像があった。

 

太子堂の脇には二面石なるものがある。

傍の立て札には「右善面、左悪面と呼ばれ、我々の心の持ち方を現したもので、飛鳥時代の石造物の一つである。」とだけ書かれていた。

 

……正直、いま職場にすごい嫌いな人がいる。声も聞きたくない、顔も見たくない、とにかく一緒に仕事をしたくない。

 

そんな自分の醜い心を太子に見透かされたような気がして、複雑な心持ちでこの石の前に立っていた。

 

それはともかく、明日香村にはとかくこういった謎の石造物が多い。

 

答えは相変わらずでない。しかし、自ずと今回のことの答えが出た時、私は再び聖徳太子に会いに行かなければなるまい。そう固く心に誓うのであった。

見なかった川原寺の跡も、その時また見ることにしよう。

 

とにかくも、こうして私は

四天王寺(大阪府大阪市)

叡福寺(大阪府太子町)

斑鳩寺(兵庫県太子町)

そして今回の橘寺(奈良県明日香村)と聖徳太子の遺跡を訪ねて来た。

次はいよいよ……法隆寺かな(中学生の時に行ったことあるけど)。

(おわり)