類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

斑鳩寺(太子町)

仕事を、辞めたいと思った。……ってこんな書き出しをするのは、神奈川県の三ノ宮比々多神社の記事も同じであった。その記事がなんと3年前(2020年)。あれから転職活動をしようにも始めず、ウダウダしているうちに3年もの月日が経過したのである。しかし、いよいよもう無理だ…この職場を離れる以外に自分の人生を変えられるきっかけがない。

そう思った私は決意の旅に出た。行く先は…兵庫県である。信仰の厚い聖徳太子ゆかりの堂の御宝前にて行く末を太子に問う旅が始まった。

やってきたのは兵庫県揖保郡いぼぐん太子町たいしちょう

兵庫県の西部、西播磨地方に属する。至近の主要都市かつ地域の中心都市は姫路である(また赤穂浪士で有名な赤穂もほどなくである)。

 

目指す目的地はJR山陽線網干駅より北へおよそ3km。

そこまでは一応、路線バス(神姫バス)があるらしいが、1時間に1本くらいしかないのでアクセスは悪い。

 

そこで私たちは手っ取り早く移動するため網干駅からタクシーに乗ることに。

 

駅の北口の階段を降りると、タクシーが2~3台待っていた。

先頭のタクシーに近づくとドアが開く。

 

「すみません、斑鳩いかるがでらまでお願いしたいんですが…」

「え?」

斑鳩寺まで」

「『お寺さん』ね」

 

おじいちゃん運転手はそう言うと車を出した。

 

目指す目的地は斑鳩寺という古寺であった。

地元では「お寺さん」というのであろうか。

 

寡黙な運転手さんは網干駅前から車を北へ向けた。

山陽新幹線の高架をくぐってしばらく行くと、「いかるが」という交差点があった。

 

まもなくだ。

そう思っていると、車は「←斑鳩寺 太子町鵤」と書かれた看板がある十字路で左折した。

 

「どこへ止めましょう」

 

フロントガラス越しに目的地の山門が見えてきたあたりで運転手さんがいった。

 

「もうこのあたりで…」

「じゃあ、あの空き地に入れますんで」

 

タクシーは山門前の駐車場に入った。

帰りもタクシーのつもりだったから、配車センターの電話番号が書いてあるポケットティッシュをもらって料金を払って車を降りた。

 

夕方の少し寂しげな情景の中に、古寺の山門が静かに佇んでいた。

だけど、周囲は住宅地で意外と人通りがあった。

 

ここが今回の旅の目的地。

兵庫県太子町にある斑鳩寺(天台宗)である。

ここは行政区分としても太子町という。

同じ名称の町が大阪府南河内郡にもある。大阪の太子町に磯長しながの御廟、すなわち聖徳太子のお墓とそれをお守りする叡福寺があるのと同様、ここも聖徳太子ゆかりの地であり、このお寺こそその地名の由来となったものである。

そもそも「斑鳩」や「鵤」といった地名は法隆寺との関連をすでに匂わせている。

伝承及び複数の史料をたどると、もともとこの地は(本当の)斑鳩にある法隆寺奈良県)の荘園であったという。

日本書紀』の推古天皇14年(606年)条の「秋七月」には以下のような記述がある。

「(推古)天皇、皇太子(聖徳太子)にまきて、勝鬘経かせしむ。三日にしてこれを説きおわんぬ。この歳、皇太子また法華経岡本宮において講く。天皇大いにこれを喜び、播磨国の水田百町を皇太子に施す。よりて斑鳩寺にもって納む」

(『日本書紀』巻22、推古天皇)

(読み下しがかなりテキトーでごめんなさい。私は中世の和様漢文は学生の頃、よく読んだのですが、古代の漢文はまったく触れておらず……なお、原文は日本書紀、全文検索の該当条文を引用しています)

 

日本書紀』に記載されるこの話が事実なのかどうかわからないが、これこそがこの地に鵤庄という荘園が立った由来なのである。

 

ここに奈良の法隆寺の別名たる斑鳩寺という寺名の寺院が存在しているのも、法隆寺による鵤庄支配の拠点として建立されたものと思われる。

 

ただ、法隆寺領鵤庄は記録上は平安時代以降に登場してくる荘園であり、特に中世期の史料をよく残している(『鵤荘引付』など)。

鎌倉時代には地頭の圧迫(押領)を受け、南北朝の動乱期には新田義貞軍に占拠されるなどしたが、戦国時代頃まで法隆寺による荘園支配は続いていた様子である。

 

寺は天文10年(1541)、出雲の尼子氏が播磨に侵攻した際に堂宇は灰燼に帰した。

法隆寺による鵤庄支配もこの頃には終わったものと思われる。

寺はその後、近隣の龍野城主・赤松氏によって復興がされた。

それで現在の堂宇は上の写真の講堂が弘治2年(1556)、聖徳太子を祀る聖徳殿(のうち前殿)が 天文20年(1551)、重要文化財指定の三重塔が永禄8年(1565)、鐘楼が天正20年(1592)の建造である。後期とは言え、戦国時代中とは言え、いずれも中世の建築である(ただし、三重塔以外はいずれも近世期の大修理を経ている模様)。

講堂の雰囲気は磯長の叡福寺の金堂と似た雰囲気を持つ。

この関西の仏堂の関東にはないこの雰囲気の根源は何なのだろう?といつも思う。斜め横から見ると、和歌山県日高川道成寺の本堂にも似ている。

この関東ではあまり見ない雰囲気、それは使っている瓦の違いなのか。

それとも単に関東には中世から近世初頭にかけての仏堂が少ないからか。

あるいは様式の違いなのか。

その答えはよくわからないが、とても古びた様子で、こういった仏堂が大好きだ。こうして改めて写真で見ると実に美しく素晴らしい。

なお、いい雰囲気とは言え仁王門(山門)など他の建造物は近世、そして近代の建築である。ただ、近世とはいっても比較的早い方(初期)のものであるから貴重なことに変わりはない。

…というわけで聖徳太子を祀る聖徳殿の前殿に額づいて、聖徳太子に今の職場を辞めるべきか問うてみた。

…が、当然、太子が答えてくれるはずもなく。暗い御宝前に佇み、ひたすら考え事をしていた。

鐘楼。なお、境内は幼稚園が隣接していて静かな境内にはそちらから子どもたちの遊ぶ声が聞こえてきて、なんとも長閑な感じだった。

三重塔はコンパクトな感じ。境外から見ると仁王門と合わせて実に絵になる塔だ。

名残惜しく感じながらも、この塔を振り返りながら寺を後にした。

 

網干駅まで戻るため、先ほどもらったポケットティッシュに書いてあった配車センターの番号に電話をする。

数分でタクシーがやってきた。

 

運転手さんは行きとは違う人だった。

しばらく車内は静かだったが、道のりを半分ほど来たところで運転手さんが私たちに話しかけてきた。

 

斑鳩寺に行ってきたの?」

「そうです」

「寺社仏閣を回ってる感じ?」

「そうです」

「どこから?」

「東京です」

「東京!?東京のどこから?」

「杉並区です」

「杉並ね…」

しばらくそんな感じで運転手さんと話をしていた。

「このあたりだと加古川鶴林寺かくりんじっていうのも有名だけどね」

「ああ、そうですね」

斑鳩はんきゅうじもね、私の父親なんかの話では蘇我氏との勢力争いで、結構(蘇我氏が)こっち来てたって聞いたけどね…」

その話が事実か事実でないかは別として、そういう話、大好きだ、と思った。

だって今ハンドルを握っているのは、ちょっと強面のおじいちゃん運転手。

そのお父さんからそんな話を聞いた、なんて話、地元の人から聞ける話としては最高過ぎる。

おじいちゃん運転手さんは、歴史が好きなのか、仏師の話とか、奈良の法隆寺の話とかいろいろしてくれた。

中でも興味深かったのが、おじいちゃん運転手さんが斑鳩寺のことを「はんきゅうじ」と発音していたことであった。

 

斑鳩寺って読みは『はんきゅうじ』なんですか?」

私がそう聞くとおじいちゃん運転手さんはこう答えた。

 

「『いかるがでら』とも『はんきゅうじ』とも『はんちょうじ』とも言うね。ほら、斑鳩って『鳩』って字が入ってるでしょ?だから『はんちょうじ』…」

 

これは実に素晴らしい体験であった。

だって、斑鳩寺が「はんきゅうじ」とも読むとはWikipediaにも書いてあったが、「はんちょうじ」という読みがあるなんて、このタクシーに乗らなければ知らなかったのだから。

 

※なお同乗していた妻は彼が「いかるが」も「いかるか」とも云うとも言っていた、といっていたような…と後で話していた。私はそこのところを聞いていなかった。

 

今日は姫路に泊まる、と私は言った。斑鳩寺から網干駅までのタクシーでの道のりは10分程度。名残惜しいちょっとした交流の時が終わろうとしていた。

 

「新快速が来るといいけどな」

 

タクシーが網干駅につくとおじいちゃん運転手さんはそう言って料金を告げた(10円おまけしてくれた)。

 

「ありがとうございました」

 

料金を払って車を降りる私たちに、おじいちゃん運転手さんは「気ぃつけてな」と言ってくれた。

普段、ストレスフルな職場で働いていると、旅先でのこういった何気ない一言が何より嬉しかった。

 

泊地の姫路へ向かう新快速はガラガラだった。しかし、この電車は兵庫から大阪、京都を通り抜けて滋賀県草津まで行くというから驚きだ。

ここは兵庫県太子町。この地を巡った旅で、太子は私の行く末に何も啓示をしてくれなかったけど、それでも素晴らしい旅の思い出を残してくれた。

 

なお、この後、姫路で妻が探して入ったお店も素晴らしいお店だった。太子町と姫路での思い出は素晴らしいものとなって、生涯記憶に残ると思った。

これも聖徳太子のご縁であろうか。

(終わり)