11月の土日を利用して、大阪と奈良に旅行に行ってきた。再び新型コロナの感染者が増えだした、なんとも間の悪いGo to旅行である。しかし、この旅はどうしても行きたかった。それはかねてより行きたかった聖徳太子の御廟がある磯長(しなが)の叡福寺(大阪府南河内郡太子町)と、かつて高校生の時に手に取ったが挫折した折口信夫の小説『死者の書』の舞台である當麻寺(たいまでら)の参拝に行きたかったのだ。
しかし、この磯長の叡福寺というのは、アクセスの不便な場所で、近鉄長野線の喜志駅からバスがあるというが、乗り慣れないバスに不安もあり、本数も少ないということで、インターネットからの情報に基づき、至近の中心都市である富田林からタクシーを拾って行こうということになった。
インターネットからの情報だと喜志駅は閑散としていてタクシーも拾いづらい。富田林なら町場だから、駅前にタクシーも常駐しているだろうと思ったからだ。
おまけにバスの時間を気にしなくてもいい以上、寺内町で知られた富田林の街並みを見ることもできるし、叡福寺の参拝を終えた後は、そのまま来たタクシーで府県境を越え、當麻寺まで連れて行ってもらおうという算段だ。
それで大阪阿部野橋駅から近鉄電車で一路、南へ。古市で乗り換え、河内長野方面へ行き、富田林駅で降りると…
駅のロータリーに何か大きな石碑が立っている。
近寄ってみると…「楠氏遺跡里程標」と書いてある。
どうやら、南北朝時代の南朝方の英雄・楠木正成や楠木正行の活躍した遺跡までの距離が記されている石碑らしい。
拡大してみよう…
「千早城址へ 三里三十二町」
「赤阪城址へ 一里二十五町」
「天野山金剛寺へ 三里十九町」
千早城や赤坂城は、『太平記』のわりかし序盤の方、楠木正成が鎌倉幕府の追討軍と熾烈な攻防戦を繰り広げることがで有名な山城だ。
天野山金剛寺は、それからずっと後、南北朝の動乱に入ってから、南朝の二代目、後醍醐天皇の息子である後村上天皇の行宮(あんぐう)が置かれた場所である。今の大阪府河内長野市にある。
下にいき、
「水分神社(みくまりじんじゃ)ならびに楠公(なんこう)遺物陳列場へ 一里二十八町」
水分神社は大和や河内に数社あり、吉野のものが有名だが、ここに刻まれているのは、千早赤阪村にある建水分神社(たけみくまりじんじゃ)のことであろう。
観心寺は河内長野市。国宝の如意輪観音像と金堂で名高い。やはり後村上天皇の行宮で、墓所もある。当然、楠木正成との関係も深い。
最下段に
「赤阪村楠公誕生地へ 一里二十五町」
「駒ヶ谷楠家墓地へ 二里十町」
楠公誕生地は千早赤阪村の赤坂城跡の近く。楠木氏の屋敷があった地とされる。
駒ヶ谷楠家墓地というのは、よくわからない。
調べてもすぐにはわからなそう。
なお、もう一方の側面と背後を写真に撮っていないが、インターネットで調べると、背後には「明治三十四年十一月建 楠氏紀勝会」とある。
明治34年は西暦だと1901年。
Wikipediaによると、河陽鉄道(現近鉄)の古市から当駅までの開業が明治31(1898)年。
鉄道開通後に、「楠氏紀勝会」なる団体によってこの碑は建てられたようだ。
南北朝正閏論の議論が熱かった時代において、南朝史跡のアピールをはかったのだろうか……
この石碑がこの旅一番の発見というか、なんというか…
確かに富田林から楠木氏ゆかりの地は近いと言えば、近いが、楠木氏や南朝史跡の見学拠点は、私としては河内長野かと思っていた。
富田林にこの石碑があったのは、大変意外。
そして、面白かった。
なお、この記事の2枚目の写真の背後に写っているタクシーに乗り、私たちはこの後、叡福寺へ向かった。
タクシーの運転手さんはいい人で、叡福寺で30分ほどお参りをした後、私たちはまた同じタクシーに叡福寺まで来てもらって、次は當麻寺へ向かった。
叡福寺と當麻寺、そして富田林の寺内町の記事もまたそのうちに。
(おわり)
【おまけ】
後から知ったが、隣の喜志駅前には「聖徳太子御廟」の石碑があるようだ。
そちらも見てみたい。
河内長野の諸寺院や史跡にも行きたいので、いずれにせよ、またこの方面へは繰り出す必要があるようだ。