類聚メモ帳PART2

るいじゅうめもちょう(移転しました。)※移転したため、記事内のリンクにリンク切れがあります。ご了承ください。

叡福寺(太子町)

いよいよ旅の舞台は長年、切望し続けてきた磯長の聖徳太子の廟所へ向かうこととなる。富田林駅前からタクシーに乗り、富田林の隣町である太子町の叡福寺(えいふくじ)へ行ってもらう。自動車にてだいたい10分少々で、叡福寺の門前に着いた。

ここが大阪府南河内郡太子町太子所在の磯長山(しながさん)叡福寺。真言宗系の単立寺院で、「上之太子」の通称がある。聖徳太子のお墓を守るためのお寺である。

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 乗ってきたタクシーに別れを告げ(とは言え、この後、當麻寺への参拝のため、この運転手さんには30分から1時間後にまた来てもらうように頼んであった)、石段を上る。ちょうど秋の深まった天気の良い日曜日であったが、参拝客は少なめで静かである。

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仁王門の扁額は「聖徳廟」。「内閣総理大臣 岸信介謹書」とある。

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岸信介は1958年~1960年に総理大臣を務めた。新安保条約の批准をめぐる安保闘争で揺れた時の首相だ。

しかし、彼がこの寺の扁額を書くというのは、何か謂われがあるのであろうか。聖徳太子信仰でもあったのだろうか。この点は興味があるが、調べ切れていない。

 

仁王門を後にすると…

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こざっぱりとた境内には、さっそく金堂がある。

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この金堂は江戸時代の享保17(1732)年再建のもの。府の有形文化財の指定を受けている。

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美しいお堂。関西の仏堂建築は私の眼にはどれもこれも国宝級に素晴らしい建物ばかりだ。このお堂も何枚も写真を撮ってしまった。

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なお、金堂内部には入れなかったが、濡れ縁まで上って本堂内をのぞき込むと、本尊の如意輪観音……が見えたような気がした。それよりも本尊前にある神鏡と、日牌式の過去帳のこの日のページがちゃんと開かれて置かれていたところばかりが印象に残っている。

 

金堂脇には多宝塔。これも江戸時代、承応元(1652)年の再建だが、こちらは国の重要文化財の指定を受けている。

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そして、さらに金堂脇にもう一つある堂。こちらは聖霊殿。聖徳太子を祀る堂で、建築年代がはっきりしている境内の建築物の中では一番古い慶長8(1603)年の再建。これも国の重要文化財指定を受けている。

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さてはやる気持ちを抑え、聖徳太子の御廟へ歩みを進める。

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叡福寺に来たいと思った理由は何であったろうか。

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思い返してもはっきりとしたことはわからない。しかし、確か以前、親鸞のことを考えていた時に、

 

親鸞が19歳の時だった。親鸞は磯長の聖徳太子の御廟に参籠したところ、夢の中に聖徳太子が現れた。太子は親鸞に対し、『諦(あきらか)に聴(き)け、諦に聴け、我が教令(きょうれい)を。汝が命根(みょうこん)はまさに十余歳なるべし』(よく聞きなさい、よく聞きなさい。私の教えを。お前の命はあと十年ほどしかないだろう)とおっしゃった。親鸞は自分があと10年ほどしか生きられないと聞いて驚いたが、太子は続けて『命終りて速やかに清浄土(しょうじょうど)に入らん。善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を』(命が終わるとき、お前はすみやかに清いところに行くであろう。(だから)よく信じなければいけない。真の菩薩を)とおっしゃったという。それから10年後、親鸞法然と出会う。そして、阿弥陀如来絶対他力の力に出会う。夢告で言い渡された『真の菩薩』とは法然のことであったのだ…」

 

この話はすなわち浄土真宗で語られる「磯長の夢告」である。

 

親鸞聖徳太子を崇敬していて、この他、29歳の時の「六角堂の夢告」でも聖徳太子が登場する。

 

しかし、聞くに聖徳太子の御廟を守護するこの寺には、親鸞の他に空海良忍日蓮・一遍なども参拝に訪れているようだ。

 

御廟の前に再び門(二天門)があり…

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そこを上り詰めると、聖徳太子の御廟があった。

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後方が古墳になっていて、その入り口に御霊屋がある。

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古墳自体は「叡福寺北古墳」と呼ばれ、7世紀後半頃のものとなる。この古墳は聖徳太子墓所ということで宮内庁の管理下にあり、母(穴穂部間人皇女)と妻(膳部菩岐々美郎女、聖徳太子が亡くなる前日に亡くなった)の合葬墓と考えられる。近く(太子町)には叔母の推古天皇や父の用明天皇の陵墓もある。

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御霊屋の唐破風屋根には、阿弥陀三尊の懸仏がある。

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日本における仏教の守護者としての聖徳太子は、それだけにとどまらず浄土信仰を結びつけるもの(例えば四天王寺や黒駒太子の引導伝承など)も、かなり多い点にとても興味を惹かれる。

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しかし、歴史学の中では「聖徳太子という人間は実在していない」という考えが、(ある意味で)主流となってきていることもあって、高校の教科書の飛鳥時代のページに聖徳太子は「厩戸王聖徳太子)」という記述がなされるようになっている。

 

すなわち聖徳太子という名称自体が奈良時代頃に出始め、平安時代頃から一般的になってきたことや、『古事記』や『日本書紀』に登場する聖徳太子の逸話があまりにも超人間的であったり、『古事記』や『日本書紀』、そして法隆寺等に残る聖徳太子の史料はいずれも後世のものであるから、藤原氏等による作為があったとする考えである。

 

聖徳太子非実在説は、なかなかセンセーショナルな考えであったから、高校教科書の「厩戸王聖徳太子)」表記への変更の頃に、テレビなどでも面白おかしく取り上げられていた。

しかし、非実在説には反論も多くあり、完全に「聖徳太子はいなかった、架空の人物だった」とは今もってなっていない。

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しかし、大事なのは「聖徳太子」はなぜ後世にここまで大きな影響を与え、(聖徳太子を)見たこともないはずの親鸞が夢の中で何度も会うくらい、人々の心の拠り所となっていくのであろうか。

私にとって、理解したい点はむしろそっちである。

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さてさて、親鸞のように参籠とまではいかなかったが、念願かなって聖徳太子の御廟にお参りをすることができた。

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名残惜しくも、また来たいと思いながら、寺の階段を降りると、どこか別の場所で待っていたタクシーが戻ってきていた。

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タクシーに乗り込むと、私たちは一路、府県境を越えて當麻寺に向かうのでした。

(続く)