類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

日金山には鬼がいる(熱海市)【後編】

地蔵堂(本堂)を見終わると、境内をしばらく周囲をウロウロと彷徨った。そうしているうちに、今まで晴れていた空は俄かに曇りだし、強い風が吹き始めた。場所が場所だけに、ちょっとドキッとする。 「あまりいたくない場所だ」 そう思いながらも、東京から函南を経て遥々やってきて、そさくさと退散するのは何かもったいない気がして、引き続き境内の散策をした。 IMG_3272.JPG

【ここまで】

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◆PART1 長い案内板

日金山東光寺への参道は霊園から来る道とは別に登山道から来るルートもあるらしい。 いや、むしろそちらの方が往古の参道、「日金山奇縁」の主人公、新吉も歩いた道なのであろう。 そちらの方へ歩いていくと、さきほど紹介した東光寺に関する案内板の横に、長大な文章が書かれた別の案内板があった。 【クリックで拡大】 IMG_3271.JPG

伊豆開山の三仙人
日金山地蔵堂のさらに奥、木立が切れて笹原となる境い目に、伊豆山を開いた三仙人の廟所と伝えられる三基の石造宝篋印塔が並んでいる。
伊豆山走湯権現の由来を記した『走湯山縁起』によれば、応神天皇二年(二七一)四月、相模国唐浜の海上に直径三尺の円鏡が出現したという。そのとき三十歳あまりの異国風の身なりをし、松葉を常食とし、松葉仙人と呼ばれた人物が高麗山に神鏡を祭ったのが伊豆権現の発祥である。仁徳天皇の御代、松葉仙人によって神鏡は伊豆山に移され、勅命によって社殿を建立した。これによって勧請仙人とも呼ばれた。
仁徳天皇七十一年(三八三)、巨樹の空洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現した。仙人は富士山の噴火や疫病を鎮めて霊験を表し、伊豆辺路(伊豆半島一周の修行路)を開いた。権現の神像はこの時初めて作られたという。
敏達天皇四年(五七五)、大地震とともに金地仙人が現れた。そのころ、高麗より鳥の羽に書かれた読むことのできない国書が届けられ、権現は人の姿で現れてこれを読み解き、朝廷より所領が献じられた。孝徳天皇(六五三)、金地仙人も入定し、三仙人の廟窟が並立して設けられたという。
現存する三仙人の石塔は、文化十年(一八一三)ごろ、般若院別当・周道によって、古い石塔を組み合わせて造成されたものである。仙人開山の伝承は、記される年代こそ空想的ではあるが、仏教公伝以前から伊豆山が神仙の鎮まる霊場であることを主張しているのであろう。
なお称名寺本『浅間大菩薩縁起』によると、往古の富士登頂者として走湯山開山の仙人と似た金時・覧薩・日代の名が記録されている。『走湯権現当峰辺路本縁起集』では伊豆山と富士山を両界曼荼羅の入口と出口に位置づけており、往古より両山一体の修験霊場と考えられていたようである。

末代上人と走湯山
平安時代、初めて富士登頂に成功し、富士修験の開祖とされる末代上人(一一〇三~?)は走湯山出身の僧であった。室町時代の成立と見られる『地蔵菩薩霊験記』の日金山の記述によると、富士山を開いた末代は、伊豆・箱根二所権現をも草創し、焔熱を発して地獄の様相を示していた熱海の亡者を救うため、日金山に地蔵菩薩を安置したという。
出家して走湯山に入ったものの、出世を求める僧ばかりであったことに失望し、五穀を断ち、粗衣を常用して諸国の雲峰を踏破し、衆生を救う苦行の道を選んだ。ついには人跡未踏と考えられていた富士登頂(富士禅定)を発願し、同志の頼然とともに準備を重ね、大宮浅間(富士宮市浅間大社)の神官や山麓の住民に助けられて、長承元年(一一三二)閏四月十九日に初登頂に成功した。「末代聖人」の名は浅間大菩薩の護法童子から与えられたという。その名声は京都にまで達し、久安五年(一一四九)には鳥羽法皇に招かれて上洛、貴賤上下の人々が書写した如法大般若経を賜り、それを富士山頂に納めた(『本朝世紀』)。
末代が開いた登山道は村山口と呼ばれ、山麓に村山浅間社(興法寺)、中腹に往生寺(中宮・室大日)、頂上に大日寺が創建された。富士開山の末代は、没後村山浅間社の境内に大棟梁権現として祭られた。こうしたゆかりによって、中世を通じて富士山麓村山の地には走湯山領として存続した。
近年、日金山に通じる「仏の道」三六~三七丁付近の山腹から、文化十一年(一八一四)に般若院主周道によって建てられた末代上人の供養塔(石造宝篋印塔)が発見され、江戸時代後期まで、走湯山においても末代上人が重要な先徳として顕彰されていたことが明らかになった。
富士山を世界文化遺産にする熱海の会有志一同 文 西岡芳文

 

な、長い…… 長すぎて全部読めず、とりあえず写真に撮って後から読むことにした。 なんとなく日金山の由来が走湯山(そうとうざん、伊豆山神社のこと)や富士山に対する信仰と関わりがあり、往古は修験道が盛んで、仙人の伝説がある…そんなことが書いてある感じがした。 さらに傍らにある看板には、長文の案内板の中に出てくる末代上人の石塔を示す矢印が書いてあった。 一応…見ておかねばならない。ということで、逃げ出したいような不気味な雰囲気、暗くなりつつある空のもと、心細さを押し殺して、私は看板の矢印の方向へ歩き出した。

◆PART2 末代上人の石塔

末代上人の石塔へは、こんな藪の中の一本道を進まなければならなかった。いよいよ風が強くなってきて周囲はとにかく不気味だ。 IMG_3273.JPG

だが、ところどころ真新しい案内板が出てくる。それを頼りに足早に歩いた。 IMG_3274.JPG

歩きながら考えた。 IMG_3275.JPG

富士山に対する信仰というのは、アニミズムを基盤とした神道系のもの、すなわち浅間信仰以外に、日本独自の山岳信仰に仏教の要素が加味された修験道がある。富士山の修験道は、富士山南西麓の村山を中心に発展した村山修験が有名だ。 末代は村山修験の祖とされる僧で、伊豆山や箱根権現を開いたのも彼であると伝えられている。 民俗風習としての山上他界のイメージしかなかった日金山だが、要するに往古は修験道が盛んであった のだ。 「さい(賽)の河原」と呼ばれる、石仏が並ぶ場所があった。

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さて、ここを過ぎた小高い丘の上に、末代上人の石塔はあった。 IMG_3277.JPG

一部部材を欠いた宝篋印塔であった。 IMG_3280.JPG

傍らの看板には次のように書いてあった。

末代上人宝篋印塔
日金山で修行した伊豆走湯山の住僧末代上人(富士上人)は、富士山修験の頭領として富士山に数百回登って修行し、富士山頂に大日寺を建立し、鳥羽上皇の書写した直筆の如法経を埋経したりして、富士山の山岳仏教を定着させた。
この宝篋印塔は、文化十一年(一八一四年)三月に般若院の第九代住職(周道)が「奉日金山再建末代聖上人一千年遠忌」として建立したものである。
「富士山を世界文化遺産にする熱海の会」

これによると塔は近世期のものらしい。塔身には「末代」と彫ってあった。 IMG_3282.JPG

そさくさともと来た道を戻っていった。 IMG_3283.JPG

◆PART3 三仙人の石塔

早足にて東光寺の境内まで戻ってきて、「さあ、帰ろう」と思っていると、今度はこんなものを見つけてしまった。

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熱海市指定文化財
史跡 日金の伝三仙人塚
指定 昭和五十二年四月二十五日
日金地蔵堂の裏山の(この奥約五十メートル)に日金山・東光寺の開祖創を伝える松葉仙人、木生仙人、並びに金地仙人を供養する市内で最も古い宝篋印塔の三基が塚上に立っている。
中央の塔が松葉、右側が金地、左側が木生の各仙人墳である。
松葉仙人古墳塔の基礎部に「建武三 九月五日 沙弥口阿弥陀仏」、追補の塔身の裏に「文化十仲冬十四日 不退金剛周道 再修拝誌」の刻銘がある。
古くからこの丘陵一帯は山林修行の場であった。

建武三」の記銘が本当ならば、「松葉仙人」なる人物の石塔は中世期のものとなる。建武3年は西暦で1336年である。 ただし、江戸時代の後補が多分にある模様だ。何かとこの文化10年(1813)という年が出てくる。 見てみる価値はありそうだ。 だが、そこに至る道は末代の石塔へ至る道よりも、もっと暗くて薄気味悪い。 IMG_3287.JPG

躊躇はしたが、そこはもう仕方がない。心細さを押し殺して歩いていくと、今度はこんなものがあった。

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戊辰戦没請西藩士終焉(戦死)の地
慶応四戊辰年閏五月 最後の佐幕派大名といわれた上総国請西藩主林忠崇に従い徳川家の恩顧に報いるため遊撃隊に加わり熾烈な箱根戦役において敗れ、熱海へ撤退中ここ日金山東光寺熱海坊にて多勢の官軍と激しく交戦、壮烈な戦死を遂げた廣部与惣治正邦、秋山壮蔵二名の戦死の墓である。維新への大きな潮流の中にあって武士の大義に殉した幕臣達の忠誠心を慮り密かに埋葬され、慰霊の墓が建立されたものと推察される。建立された篤志家(不詳)、発見の端緒を開かれた郷土史家各位ならびに東光寺関係者に深甚の感謝を捧げる
平成二十五年五月(修復)
東京大学名誉教授 廣部雅昭
(請西藩士 廣部周助玄孫 熱海市伊豆山)

請西藩(じょうざいはん)という藩を初めて知った。現在の千葉県木更津市のあたりにあった藩という。石高はわずか1万石。大名としてはギリギリのラインで、小藩だ。 だが、幕末期は佐幕派として戊辰戦争で改易された唯一の藩となったという。へぇ。 戊辰戦争での戦いがここ日金山でも戦われた、というのは意外な話だ。

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なるほど、件の戦死した請西藩士の子孫が、この墓の存在を知り、由来の石碑を建てたわけだ。

 

◆PART4 大逃亡

そこからさらに進むと、墓地に出た。 IMG_3293.JPG IMG_3294.JPG

墓地はさきほど私が車を置いた霊園に隣接しているが、その霊園の区画内ではないようだ。 東光寺の墓地であろうか。

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ここからは十国峠のケーブルカーの駅が見えた。 IMG_3296.JPG

墓地の片隅に、古びた宝篋印塔があった。これが中世期のもの……と考えられる松葉仙人の供養塔だ。 案内板もないのでわかりにくい。

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続けてこちらは金地仙人の石塔である。 IMG_3300.JPG IMG_3301.JPG

最後、なかなか見つからなかったが、これが木生仙人の石塔。

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古びた宝篋印塔群を取り終えると、いよいよこの場所から逃げ出したい思いが強くなる。  東光寺の境内に戻るのは嫌だった。このまま霊園に抜け出し、車まで戻ろうと思った。 眼下、箱根の方角を臨みながら、足早に霊園内を歩く。 IMG_3305.JPG

霊園内も人気はなかった。途中、トイレをお借りした。 眺望はよかった。海を眺めながら、ただひたすらに車へ急ぐ… IMG_3307.JPG IMG_3308.JPG

日金山は山上他界だ… そう知っていながら、あまり軽々と行くような場所ではなかった。 その雰囲気たるや、なかなか壮絶なものがあった。 「日金山には鬼がいる」 まさにそうであった。他界と現世が交錯する場所というのは、現代にもあったのだ。 恐ろしや、どこかで間違えたら、他界に引き込まれるのではないか? そう思うような場所であった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ おまけ

帰り、大磯でめちゃめちゃ洗車した。特に意味はない。 IMG_3309.JPG

大山を眺めながらご帰宅。 IMG_3310.JPG

(終わり)