もう半年くらい前の話になってしまいましたが・・・
秋葉山本宮秋葉神社の続きです。
秋葉神社上社の参拝を終えた私たちは、いったんお土産屋に入り、遅い昼ごはんとして蕎麦を食べることに。
そして食べ終えると、いよいよ今回の旅の一番の目的、秋葉寺(しゅうようじ)を目指すことになりました。
秋葉寺へ行く道は、秋葉神社から10分ほど山道を下るという情報は得ていましたが、詳しくは調べていませんでした。行けばわかるだろうと思ったのです。ところが、実際、秋葉神社の境内には秋葉寺への道を示す看板も地図もありません。そこで蕎麦を食べ終え、お土産物を買ったついでに、売店のおばさんに「秋葉寺(しゅうようじ)はどう行けばいいのですか?」と聞くと、「ん?」みたいな顔をされたので、「秋葉寺(あきはでら)は・・・?」と聞くと、「ああ、えーと・・・あのジュビロの絵馬があったでしょ・・・?確かあの横を行くと・・・じゃなかったかなぁ?でも社務所に聞いてください」
地元の人もそんなに知らない?ということは案外、有名ではないのか?そんな疑問が頭をよぎりました。
そんでまた神社に戻っていくと、ちょうど神職さんたちがわらわらしていたので、一人の神職さんをつかまえて、「すみません、秋葉寺(あきはでら)はどう行けばいいんですか?」と聞くと、「ああ、秋葉寺(しゅうようじ)はですね・・・」
と道と所要時間を教えてくれました。
※秋葉寺の読みは正しくは「しゅうようじ」
教えられた通り、秋葉神社の石段横から山道を下っていきます。
なかなかアップダウンの激しい道でした。
盛夏の頃でした。
標高が高いので暑さはあまり感じませんでしたが、さすがに息があがり、じっとりと汗で服が湿っていくのを感じます。
そうするとやがて門が見えてきました。
これは秋葉神社の「山門」です。今は随神門(ずいしんもん)というべきでしょうか。
秋葉山は明治期と太平洋戦争中に社殿が火災で焼失しているので、この門が秋葉山に残る唯一の江戸期の建築物です。
その近くには鳥居の跡があります。
このように秋葉山は全体的に神仏分離による荒廃の跡が随所に見て感じ取れます。
そこからさらに歩くと・・・人家らしきものが見えてきました。
やっとついたこここそが、かつて江戸期の秋葉山信仰の中心であった三尺坊(さんじゃくぼう)を祀る秋葉寺(しゅうようじ)です。
ところが明治初年の神仏分離により、秋葉山への信仰も神社神道的なものに置き換えられました。
ここには山内の対立という複雑な事情もあったのですが・・・
秋葉寺は廃寺となり、三尺坊の真体は袋井の可睡斎へと移されました。
すぐに秋葉寺は地元の人の願いにより、中腹に場所をかえて復興しました。
これが今来た秋葉寺です。
本堂は質素はですが、とても雰囲気が良いものでした。
しかし、袋井に真体が移ってしまった以上、こちらは衰退したと言うべきなのでしょうか。
ひっそりと静まり返った境内には、私たち以外、人気がありません。
本堂をのぞいてみます。
なぜか本堂外の土間に仏像がありました。
中には三尺坊の絵がかけられています。
すっかり衰退してしまった様子でしたが、私はこの雰囲気がとても気に入りました。
何時間でもここにいたいと思いましたが・・・
次の訪問地もあるので、長居はできず・・・
こちらの山門も立派なものでしたが、やはり荒廃がひどい様子です。
火祭りは現在でも行われているようですが・・・
最後に人気がない秋葉寺ですが、ちゃんと授与所があって人が常駐しているようです。
私が行ったときには、授与所内には誰もいなかったのですが、横の入り口から中に入るとベルがあって、「用がある人は押してください」とあったので、ボタンを押すと、電鈴が響いて、すぐに奥からおじさんが出てきて、対応してくれました。
こうして入手した三尺坊のお札がこちらです。
姿は可睡斎のものと同じですが、独特の色使いをしています。
この寺のあまりの荒廃ぶりを見た時、神仏分離で山を追われた三尺坊は、本当に山を去って、賑やかな人里の袋井で、のんびりと暮らしているのかという妄想も頭をよぎりました。
でも、このお札を入手した時、あまりの嬉しさに、この山にまだ三尺坊はいると確信しました。
そんなことを思いながら、私たちは次の目的地へと向かうことにしました。
(つづく)