類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

三遠への旅4

というわけで、今度は半僧坊の御真殿(ごしんでん)へ外から参拝。無事、御影(おすがた)も購入。しかし、雰囲気は袋井の可睡斎大雄山の道了尊とそっくり。特に三尺坊を祀る可睡斎の御真殿とは瓜二つと言ってもいい感じです。

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さて半僧坊の由来は、次のようなお話です。

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むかし、南北朝時代の頃、奥山の方広寺を開いた無文というお坊さんが、禅を学ぶため、中国に行き、7年後に船に乗って日本に帰国する時、大変な暴風雨に遭ってしまいました。

無文が観音経を唱えていると、その時、どこからともなく法衣をまとった異人が現れました。


異人「禅師さまが、学んだことを日本に広めるためには、禅師さまをしっかりと故国へ送り届けなければなりません。わたくしにお任せを」


と、異人は言うと、船頭や水夫(かこ)たちを励まし、指揮をとったので、船は無事に嵐を乗り切って博多の港に着くことができました。


無文「いやぁ、無事に着くことができた。これで私が中国で学んだことを日本に広められる・・・って、あれ?あの人は?」

船頭・水夫たち「あれ?いつの間にかいません!」

無文「不思議な方じゃ。きっと神仏のお助けがあったに違いない・・・」

船頭・水夫たち「ありがたや、ありがたや・・・」


さてさて、それから数年後。無文がここ奥山に方広寺を開くと、あの異人が再び姿を現しました。


無文「あれ?あなたは、あの時の・・・」

異人「わたくしめを、禅師さまの弟子にしていただきたく・・・」

無文「それはそれは・・・もちろん、構わんよ。ところであんたの姿は、半ば僧のようじゃが・・・」

異人「まさしく。私は半分僧体なのです」

無文「へぇ・・・それじゃ、あんたは半僧坊じゃな」

異人「まさしく、私は半僧坊です」


こうして半僧坊と名がついたこの異人は、長く無文のもとにお仕えし、修行に励みました。

やがて、無文が死ぬと、半僧坊は


「わたしは今日以後、この奥山を護り、世の中の苦しむ人々を救いましょう」


と言って、姿を消してしまいました。

以後、半僧坊は方広寺の守護神として祀られ、火伏せ・海上安全に霊験あらたかな神様として人々の崇敬を集めました。


めでたし、めでたし。

そんな半僧坊の姿は、いったいどういうものなのでしょうか。

さきほど購入した御影(おすがた)を見てみましょう。

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ここに見える通り、半僧坊は天狗なのでしょう。

ちなみに御影に描かれたこの姿は鎌倉建長寺の鎮守として勧請された半僧坊もまったく同じ姿をしています。

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しかし、「半僧」であることが一体どういった意味を持つのでしょうか?

天狗と仏教の関係性を鑑みた時、そこに何か深い意味がありそうで、またなさそうで、よくわかりません。

また半僧坊は僧侶が死後、天狗となって、鎮守神となるということは、やはり三尺坊や大雄山の道了尊と共通しています。

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さあ、わからない。

なぜこういった共通点が多いのか?

なぜ天狗は禅宗のお寺に祀られるのか?

なぜ天狗を祀るお堂を御真殿というのか?

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わからないことだらけです。

わかりそうでわからない。

関係する本を読んでいないので、そういう論考があるのかもしれませんが、基本的に自分にはわからない。

おまけに堂内には、なぜか三尺坊のような天狗らしき像がありました。これは一体何?

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しかし、もう一つ気になるのは半僧坊への信仰が広まった時期です。

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半僧坊は、この通りもともとは方広寺の鎮守に過ぎなかったのですが、明治10年代に入ってから、急速にその信仰が拡大し、静岡や愛知の寺院にいくつか勧請された他、名古屋・長野・鎌倉・横浜などに別院が置かれたそうです。

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特に火防や、その由来から海上交通安全への崇敬が特に高かったとのことです。

現在では、その信仰も衰え、奥山の他では鎌倉・建長寺の裏山、勝上けん(しょうじょうけん)に勧請されたもの以外では、あまり有名ではありませんが、一時期、それも明治10年代という本来は明治政府の政策によって、修験道系の宗教が抑圧された時代に、急速に信仰を拡大したことは非常に興味深いものです。

鎌倉建長寺の半僧坊も明治23年(1890)に時の建長寺の管長が見た霊夢によって、勧請されています。

また引佐(いなさ)には、半僧坊への参詣のために馬車鉄道などが敷かれ、これが町の発展の基礎ともなりました。

気になることはわからないことだらけですが、私はこの半僧坊がかなり気に入りました。

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可睡斎の三尺坊とともに、何度でも訪れたい寺社ランクに入りました。

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ところで、この半僧坊の御真殿の柱に、これまた興味深いものがあります。

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いくつかの柱に貼られたこの千社札(せんじゃふだ)。

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「海軍航空隊」「特高戦隊」、「震洋特別攻撃隊」、そして「慰霊」という文字が見えます。

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ただの千社札ではありません。

どうも震洋という太平洋戦争中の特攻兵器、つまり爆弾を積んで体当たり攻撃をするためのボートなのですが、その戦死者の慰霊のために貼られたもののようなのです。

この千社札の存在は、「into the border」というブログの作者さんの記事で知りました。

千社札に慰霊の意味を込める・・・

非常に不思議なやり方ですが、果たしてこれは普遍的な習俗なのでしょうか・・・

ここに見るかぎり、地域は「尾張大府」、つまり愛知県大府市の人が貼った・・・ということなのでしょうか?

これ以外の地域は見受けられなかったのですが・・・

しかし、インターネットで調べるかぎり、小湊の誕生寺の門にも同じようなものがあるとのことですが、これもまた気になります。身に行って調べてみたいものです。

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さて、この半僧坊への参拝から帰った12月26日、安倍首相が現職の首相として7年ぶりに靖国神社に参拝しました。

首相はあくまで戦没者への追悼、という意味で行ったと言うわけですが、なぜこのタイミングなのでしょうか。

そして予想できないはずがない中韓の反発。今回はアメリカまでも「失望」との警告ともとれるメッセージを発しました。

私は中韓におもねる必要はまったくないとは思いますが、かと言って首相の靖国参拝に特に何のメリットも感じません。いや、むしろ外交上はデメリットの方が大きく、私には安倍首相、靖国参拝は結局のところ首相の力を誇示するか、あるいは自己満足のようにしか見えません。

太平洋戦争で失われた多くの命は、果たして政治家の靖国参拝を望んでいるのだろうか。

半僧坊の千社札を見返しながら、私はただそういう疑問を持ち続けています。

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そんなこんなで、いろいろ収穫があった方広寺と半僧坊の参拝は終了。

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三重塔を最後に見て、方広寺をあとにしました。

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風の強い日でした。雲がどんどん流れていきます。寒いので、温泉にでも寄ろうと思い、車に乗り込みます。

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・・・が、さっそく迷った。道端に車を止めて地図を見ると、別に道を間違えたわけではなかった。

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浜松いなさ北ICから三遠南信道を経て、鳳来峡へ。

名号温泉梅の湯というところに行きました。

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さっぱりしてから、ゆっくり帰路へ。帰りは東名で帰ります。途中、浜名湖SAで休憩。

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しかし、帰りも疲労が・・・途中、遠州豊田PAで帰路2回目の休憩。

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眠気がとれず、仮眠することに。

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この車、座席がここまでフラットになるとは知らず。

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いざ、寝ようと思うと、寝付けない。でも、ちょこっとうつらうつら・・・気づくと、ここで40分以上、止まっていました。

さらに何回か休憩をとり、その先は結構元気になりました。

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途中、厚木付近で東名は40kmの大渋滞だったので、裾野で降りて、残り延々246で帰れるほどに回復。

というわけで、今年の旅もここまでといったところ。

今年は自分にとってもいろいろ激動の年でした。

でも、趣味の方ではいろんな発見があって楽しい一年でした。

来年もまたいろいろなところに行きたいと思うかぎりです。

それではこのブログを御覧の皆様方、今年はどうもありがとうございました。

また来年もよろしくお願いします!

(終わり)