旅もいよいよ最終日を迎えました。最終日の目的地は
比叡山です。一度は行ってみたかった
比叡山。あの根本中堂(こんぽんちゅうどう)をどうしても見てみたい。
というわけで、私たちは朝チェックアウトを済ませるとさっそく車に乗り込みました。カーナビで検索をかけると、
名神の京都東インターで降りるルートとなっています。私はどちらかと言うと横川を先にみたい、そして最後に根本中堂を見たいと思っていたので、ちょっとこのルートだと困ります。しかも、京都東ICというと山科の近くです。なんとなく遠回りな気がしました。そこで、カーナビを一般道優先ルートにすると、
近江八幡・
野洲・
草津・守山を通って、
琵琶湖大橋を渡り、
堅田の方へ出るルートが出ました。まさに私が当初考えていたコースです。高速道路は使わないので時間がかかりますが、さっそくこれで出発です。
・・・と、その前にお世話になった宿泊地・長浜のお城、
長浜城を訪れました。
この
天守は
彦根とは違い、1983年に建てられたものです。こういう復元された
天守を疑似
天守閣と言います。
長浜城の
天守の中は現在、
長浜市立
長浜城歴史博物館となっています。
せっかくなので歴史博物館にも入ってみました。
博物館では行った時期はちょうど「湖北の観音」展をやっており、観音像をたくさん見ることが出来ました。
実は湖北・・・に限らず、琵琶湖の周辺には十一面観音を中心とした観音様が多くまつられており、観音信仰が盛んな地域なのです。この地を舞台とした
井上靖の小説『星と祭り』は、長いですが、なかなか面白い小説ですので、お勧めです。
しかし、私も『星と祭り』を読んで琵琶湖の観音信仰を知ってはいました。どこか一か所ぐらい観音様を拝みたいとは思っていましたが、タイトな日程だったので、行けませんでしたが、まさかこんなところで観音様に会えるとは思いもしませんでした。これは私の日頃の行いが良いからです(二回目)。
しかし、あんまりゆっくり見ている時間もなく・・・
秋初めのすっきりとした青空の長浜をあとにします。
さて、
比叡山までの長旅の開始となりました。
最初は琵琶湖沿い、
近江八幡あたりから琵琶湖と別れて、やや内陸に入ります。
広々とした平野部をひたすら走ります。
しかし、信号がずっと青。一般道ですが、ひたすら順調に進みます。これは私の日頃の行いが(ry
カーナビの予想到着時刻がどんどん早まります。
そんなこんなで無事に守山に着いて、
琵琶湖大橋を渡りました。
対岸の
大津市堅田から湖西(こせい)道路という高速道路みたいなバイパスにのると、看板に「
比叡山」の文字が見え始めます。
仰木
雄琴ランプでおりて、住宅地のような山村のようなのどかな道を抜けると、
奥比叡ドライブウェイという有料道路に入ります。
「いよいよ
比叡山に来るのだな」と何度も心の中で思いました。
ちゃんと整備されているとは言え、ヘアピン連続の山道を
ヴィッツがたくましく登っていきます。
自分で言うのもアレですが、私は結構山道の上りは得意なんですよ。
まあ、後続車も対向車もほとんど来ないので気が楽だったのもありますが。
途中の展望台でおりてみました。琵琶湖を臨む素晴らしい景色が広がっています。
しかし、旅と言うのは初めて来た場所が「こういう場所なのか」と思う、あの感触がその醍醐味であります。とにかく
比叡山へのこの道のりは忘れられないものとなりました。
ほどなくして、横川地区につきました。広大な駐車場がガラガラなのは平日だから?
[スポット] 延暦寺(えんりゃくじ)(滋賀県大津市)
比叡山(標高848m)全域を境内とする天台宗の総本山。比叡山にあるので、延暦寺のことを比叡山といったり、また略称で叡山といったりもする。滋賀県と京都府の県境に位置する。平安京(京都)の鬼門(北)を守る寺院であった。天台宗の開祖、最澄による開山で延暦7年(789)にできたので、年号をとって延暦寺となった。延暦寺は天台宗ではあるが、天台・律・密教・禅の兼学の道場であったため、ここから中世仏教を担う多くの僧侶たちを輩出した。これは例えば良源(元三大師)、源信(恵心僧都)、法然(浄土宗の開祖)、親鸞(浄土真宗の開祖)、栄西(臨済宗の開祖)、道元(曹洞宗の開祖)、日蓮(日蓮宗の開祖)などである。一方で中世を通して、武装化し、その強大な力は京都の為政者たちを困らせた。興福寺を中心とする奈良の「南都」とともに比叡山の勢力も「北嶺」として恐れられた。武家政権ともたびたび対立したが、この結果、室町時代には足利義教と激しく対立し、戦国時代になると織田信長の焼き討ちにあった。境内は東塔(とうとう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三地区に分かれている。
横川地区への道を歩いていくと・・・
こんな感じのパネルがいっぱいあります。
比叡山は
天台宗に限らず、日本仏教上重要な高僧をたくさん輩出しました。これはそれを顕彰して、高僧たちの生涯を伝記風にイラスト入りで書いたものなのです。
これは
親鸞のもの。
そして、これは
日蓮。場面ごとにパネルがある人と、一枚のパネルにまとめられちゃっている人がいます。
さすがに新仏教の祖師たちは、パネルを盛大に何枚も使って生誕から逝去まで追っています。
たくさんあります。どうも横川地区は鎌倉新仏教ゾーンのようです。
道元や
日蓮、
親鸞、
法然のものなどがありました。
このパネルを見て、
比叡山というのは
天台宗の総本山ということもさることながら、日本の仏教の総本山と言ってもよさそうだと思いました。なにしろ日本のお寺はたいていが鎌倉新仏教か天台・
真言です。
真言宗は
高野山ですが、それを除けば天台の僧+新仏教の祖師たちはみんなここで修行したわけですから。
しかし、これは天台教学というのが、禅から念仏、
法華経、
密教兼学でなんでも対応できる、といったとこから来ているのでしょうね。
延暦寺をわかりやすく言うと、日本の仏教界の高僧を輩出した総合大学といったところでしょうか。
歩くとほどなく横川中堂(よかわちゅうどう)へ着きました。夏の木々に彩られ綺麗です。
中に入ってみましたが、厳かな感じがしました。お寺好きなので、こういう空間が大好きです。
こう見えてもちょっとは信仰心もあるんですよ。
横川中堂は1942年に落雷で焼失したため、1971年の再建です。
横川は円仁(えんにん)という高僧が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥です。円仁は慈覚大師という
諡号(しごう)を贈られていますが、苦労して唐に行って修行して、苦労して日本に戻ってきたことで有名です(『入唐求法巡礼行記』)。ちなみに彼は最後の
遣唐使の一人なのです。
横川中堂から奥へ進むと・・・
良源を祀る四季講堂(元三大師堂)の前に来ました。
横川にはもう一人、良源という有名なお坊さんも住んでいました。彼は慈恵大師という
諡号を送られたのですが、一般には元三大師(がんざんだいし)の通称で知られています。元三大師というのは、良源が正月三日に亡くなったことからきた通称ですが、なぜ知られているかというと、昔、こんなお札が流行ったのでした・・・
これは「角大師」と呼ばれるお札です。
簡単に言うと厄除け・魔除けの護符(ごふ)、お札です。良源が鬼の姿になって悪魔を払ったという伝承から来ています。
ちなみにこちらは私が入手した調布・
深大寺の降魔札。左側が角大師。右側が豆大師です。
「大師と言えば
弘法大師・・・」ではなく、意外にも関東には元三大師のことを大師と呼んでいるお寺がいっぱいあります。
有名どころでは、そばで有名な調布の
深大寺、
U字工事の「SYD」で有名な(?)佐野厄除け大師(惣宗寺)、拝島の古刹、拝島大師(本覚院)、上野の両大師(
寛永寺)、川越大師(
喜多院)などなど・・・
これらのお寺はいずれも元三大師を祀っています。
その良源を祀るお堂がこの四季講堂(元三大師堂)です。
四季講堂の名は、春夏秋冬に
法華経の講義を行ったことから来ています。四季講堂とは素敵な響きです。
また良源はおみくじをはじめた人とも言われ、この四季講堂では本格的なおみくじをやってくれます。
本格的過ぎるので、私はやりませんでしたが・・・
ひなびた雰囲気のある横川は、人も少なく、静かで大変良いところです。
東塔・西塔からは結構離れているので、行く人も少ないものと思われますが、この静かな雰囲気もたまりません。
さて、そろそろお腹が減ってきました。車に戻った私たちは西塔を目指します。
(つづく)