いよいよ旅も最後の目的地となりました。西塔の駐車場を出発してほどなく東塔に到着しました。こちらはやや車が多かったのですが、いずれにせよ駐車場が広大なのでいくつもスペースがありました。東塔は
延暦寺の中心的な地区で、ここに
延暦寺の本堂とも言える根本中堂(こんぽんちゅうどう)があります。
根本中堂とは不思議なネーミングですが、これは
最澄が最初に創建した薬師堂・
文殊堂・経蔵のうち、薬師堂が三つのうち、中心であったため中堂と呼ぶようになったとのことです。いま上野の
寛永寺や、山形の
立石寺(りっしゃくじ)と言った
天台宗寺院の本堂も根本中堂と呼びますが、
延暦寺にならった呼び方なのでしょう。
この独特なネーミング、そして写真で見た巨大な本堂を一度見てみたいと思っていました。
駐車場から根本中堂の方へ歩いていくと、大講堂があります。
このお堂は、江戸時代の建築です。もと坂本・
東照宮にあったお堂を移築したものです。なぜ移築したかというと、もとのお堂が1956年に火災で焼失したためです。横川や
竹生島といい、今回の旅で日本の建築は木造であるがゆえ
地震や火災の被害に遭いやすいことがよくわかります。
さて、いよいよ根本中堂への道に来ました。
見えてきました。しかし、写真に写っているのは根本中堂を取り巻く回廊と唐門です。
実はこの門より先は撮影禁止。
しかたがないので石段の上から撮ります。
根本中堂は見ればわかると思いますが、実に巨大なお堂です。
室町時代には
足利義教との対立で焼失、戦国時代には
織田信長による焼き討ちで焼失したため、現在ある根本中堂は江戸時代の
徳川家光の将軍期に8年間かけて再建されたものです。国宝です。
その中は外陣・中陣・内陣と分かれています。
簡単に言うと外陣が歩くスペースで、中陣が拝むスペースで、内陣が仏様がいるスペースです。
中陣と内陣は格子で隔てられており、内陣は中陣よりも3mも掘り下がっています。
格子から内陣をのぞくと、暗闇の中にうっすらと燈火に照らされた仏像群や
厨子が浮かび上がっています。
それはさながら仏界をのぞいているような気分になります。
本尊は
最澄が自ら刻んだと言う
薬師如来(
秘仏)で、その前には1200年間一度も消えることなく輝き続けている不滅の法灯があります。
興奮冷めやらぬまま根本中堂をあとにすると、石段を登り
文殊楼という門のところまで来ました。
この頃から少し旅の疲れが出てきました。
すべての目的を果たし、フラフラと
坂本ケーブルの方の道へ歩いていくと・・・
消防車の屯所がありました。
比叡山自前の消防車です。大切な
文化財を火災から守るために自衛消防隊が配備されているわけですね。
さて、再び駐車場へ戻りました。ここはさすがに
比叡山の中心とあって人も多いですが、そろそろ参拝時間も終わりが近づき、どの人も帰り支度です。
この駐車場にあったこの看板を見るに、最寄りのインターは
名神の
栗東ICなのでしょうか・・・
こうして私たちはすべての日程を終えました。
このあと、車を大津で返し、電車で京都に出ると新幹線で東京へ戻りました。
本当は
日吉大社や
安土城も見る予定でしたが、時間が足りず、見れませんでした。
しかし、今回の旅でわかったことは
滋賀県には日本の歴史を勉強する上で見ておかなければならない史跡や寺社がたくさんあることです。これはとても一回の旅行では見切れませんので、また来ようと思いました。いっそ、
滋賀県に住んでもいいと思うくらいでした。
宿題になってしまったのは、
日吉大社、
安土城跡の他に
瀬田の唐橋、
石山寺、
近江八幡などです。今回は湖北が中心だったので、次回は大津を中心とした地域を見てみたいです。
滋賀県は現在においても交通の要衝で京都、大阪、神戸などの大都市圏のアクセスがよく、人口増加や産業集積が進んでいると聞きます。それでも少し郊外へ出れば田園風景が広がり、のどかさがあります。
そして、古代から中世、そして現在に至るまで悠久なる歴史の流れを感じ取れます。
やはり来てよかったと思いました。
この滋賀の旅はなかなかの思い出となりました。
皆様も、歴史好きな方は、どうぞ訪れてみてください。
(終わり)
◆ここまで
・
滋賀県に行ってきた1(序章・番場の蓮華寺)
・
滋賀県に行ってきた2(賤ヶ岳)
・
滋賀県に行ってきた3(竹生島)
・
滋賀県に行ってきた4(多賀大社と彦根城)
・
滋賀県に行ってきた5(比叡山横川)
・
滋賀県に行ってきた6(比叡山西塔)