類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

その後の行程(新婚旅行編・完結)

何しろ2年前の2021年の春に行った新婚旅行の記事がいまだに完結していなかった。

道成寺の参拝を終え、残すところは南方熊楠記念館(白浜町)、熊野本宮大社(田辺市)、熊野速玉大社(新宮市)、熊野那智大社(那智勝浦町)、そしてトルコ記念館(串本町)である。

これだけの時間が経ってしまうと、もうすでにこれらの寺社等を一つずつ立項するのは難しい(思い立った時に立項するか、あるいは再訪した際に記事にするかは別として)。だけれどもとにかくこの新婚旅行編を完結させなければブログ上におけるこの旅が終わらない…ということでここからは道成寺以降の訪問地をダイジェストで紹介する。

<ここまで>

初日(徳島編)

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2日目(兵庫・淡路島編)

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3日目

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4日目

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南方熊楠の記念館

道成寺を出た後、昼食を済ませ、一路南へ車を向ける。

田辺市にある、南紀が生んだ巨人・南方熊楠の記念館を見るためだ。

だが、何しろこのために買ったとも言うべきミラーレス一眼は電池切れ。スマホで何枚か写真を撮ったが、それがどうも見つからない。あまり写真自体を撮っていなかったのかもしれない。

…というわけで、この項目はパス。

しかし、南方熊楠の記念館というのは田辺市とその隣の白浜町の2か所にあることを私は知らず、レンタカーのナビ通りに行ったら白浜町の方の記念館についてしまった。

 

それはそれでよかったのだが、田辺に残る彼の旧宅とそれに隣接する顕彰館にも行ってみたかったし、田辺市街も見てみたかったが、次に予定もあり、結局それはパスした。

 

子どもの頃、南紀への憧れを最初に抱かせた知の巨人が住んだ町には再び行きたいし、彼のことはその時、また記事にできればよいと思った。

 

川湯温泉で一泊

…というわけで車で田辺市上富田町へ入り、いよいよ熊野路へ。

ここから遠路遥々、すごい山の中…と思いきや、熊野口たる上富田町の岩崎交差点から国道311号へ左折する間際の案内標識には「川湯温泉 47km」とある。

グネグネ山道とは言え、道路状況は概ね良好な2車線の国道を約50km弱ほどの道のりであり、1時間程度の車の旅であった。

これは何と言っても意外であった。

熊野と言えばとんでもない僻地で山の奥。紀伊半島の先っぽのど真ん中なので、さぞかし長時間かかるのかと思い過ぎていたせいか。

順調に車を走らせ、予約していた宿にあっさりついてしまった。

 

宿泊した旅館「川湯温泉 冨士屋」は大塔川に沿う素晴らしい宿であった。

温泉も料理も雰囲気も何もかもが素晴らしい。忘れられない一夜となった。

 

だけど、ここでとんでもない光景に出会う。

写真はないのだが、到着して部屋でくつろいでいると、宿の前の細い道を普通の路線バスが通過していく。

何気なくみると奈良交通の普通の路線バスだ。

まあ、奈良県の隣の和歌山県だから奈良交通も営業範囲なのかと思いきや、バスの後ろの電光掲示板に表示された行き先に衝撃を覚えた。

そこには「大和八木駅」と表示されていたのである!

 

大和八木駅…!?奈良県橿原市にある近鉄大阪線橿原線がクロスする大きな駅だが、ここから100km超は離れている。

そんなところから路線バスが来るの!???

すぐにスマホで検索してびっくり。

 

私が見たバスは「高速道路を使わない路線では日本で一番長い路線バス」、奈良交通の八木新宮線であったのだ。

路線延長は実に169.8km、停留所の数は168。橿原を出て、大和高田・葛城・御所の各市を経て、五條市から山間部に入り、十津川村を通って、和歌山県に入り、ここ田辺市(田辺市は合併して相当広い)、そして新宮に向かうとんでもないバスだ。

 

しかし、このバス、運航当初は起点は南部の橿原ではなく、さらに遠い北部の奈良市を出発していたというから驚きだ。

珍しいから、今や観光路線、というかこのバスに乗ること自体を目的にする人が多いらしい。私もいつか乗ってみたい。

 

そんなわけで翌朝はいよいよ本宮大社へ。

 

熊野本宮大社

川湯温泉から本宮大社は車ですぐだ。

河川敷の広い駐車場に車を止め、そこから旧社地の「大斎原おおゆのはら」へ向かう。

私も初めて知ったのだが、もともと本宮大社熊野川にいくつかの川が合流するこの中州にあったのだが、明治22(1889)年の洪水で甚大な被害を受け、現在地に移転したのだという。

 

紀伊半島の歴史は水害の歴史といっても過言ではなく、近年でも2011年の紀伊半島大水害(奈良・和歌山・三重に甚大な被害を与えた)での惨事が記憶に新しいが、この本宮大社を押し流した明治の水害はいわゆる十津川大水害のことで、殊にここからもっと上流の奈良県十津川村に甚大な被害を与えた。

この時の被災者の一部は北海道に移住し、新十津川村を作ることになる、あの大水害のことだ。

 

現在、この大斎原には大鳥居があり、中はちょっとした森になっており、石祠がいくつか並んでいるだけである。

 

ちょうど桜が綺麗で素晴らしかった。大斎原の中は神域で写真撮影ができない。

 

北側に移転した熊野本宮まで歩いていく。

 

院政期以降、上皇を筆頭に時の権力者の熱心な信仰を集めて発展した熊野信仰であるが、山岳信仰や仏教との習合も含めて、その成り立ちは非常に複雑で難しい。

しかし、熊野神社はあちこちに存在しており、特に沖縄における受容の形態は非常に興味深い。

 

当然、南方熊楠に始まった南紀への憧れの中心をなす熊野三山の一つ、本宮の参拝は念願のものであった。

残念なのは、この門より先は撮影禁止で、水害から生き延びた素晴らしい社殿たち(上四社)の姿を画像で見ることができないことであろうか。

 

◆新宮へ

川湯温泉からすぐなので午前中には本宮の参拝を済ませ、私たちは一路、車を東へ向けた。

ここから国道168号に乗り換え、新宮までの旅が始まる。ただ、こちらも遠いと思いきや、ちゃんとした2車線の国道を約34kmほどなので昼近くには新宮市街に到達することができた。

 

しかし、新宮では昼飯を食べる場所に難儀した。

 

速玉大社(新宮)の付近ではあまり観光客向けの入りやすい飲食店はなく、街中の地元の人が行くような蕎麦屋をようやく見つけて入ったが、まだまだコロナ禍だったこともあり、「確認カード」みたいなものに住所・氏名・連絡先を書かされ、どことなく白い眼を向けられているような気持ちの中で蕎麦をすすった(そして、あまりおいしくなかった)。

 

今までの紀伊半島の西側の海沿いであった田辺や山のど真ん中であった本宮から一転、東側の海沿いである新宮はこれまた違う景観であった(ここまで来ると地理的に三重県とのつながりが深くなってくる)。

 

だが、蕎麦屋で感じた旅人への排他的な目も含め、これが潜在的に私が新宮という地に求めていたものであったことも確かであった。

そう。ここ新宮は中上健次の小説『枯木灘』の舞台であったのである…

枯木灘』もまた私の南紀のイメージを形成した一つであった。

 

速玉大社もまた明治期の火災に遭っている。現在の社殿は戦後のもので、本宮と比べると少し「そこらへんにある普通の神社」感が半端ない。

ここも世界遺産なのだが…

だが、神社の裏手から見た熊野川の河口は雄大であった。

紀伊の山々に生まれ出て、ここから太平洋へと流れ出るこの大河の終点がここ新宮なのである。

 

◆旅のフィナーレ・那智

ここまでずっと晴れていたが、最終日だが雨模様となった。

まるで旅の終わりを惜しむかのように。

最終日はいよいよ熊野三山の三つ目、那智を拝みに行く。

 

私の南紀への憧れの中で、那智こそとんでもない山奥…というイメージがあったが、実際には那智は新宮から南へ少し行ったところにある。

ただし、那智勝浦町の市街地からは山間に入ったところで、本宮と比べると海に近接した急峻な山の中にある感がある。

 

それは単純に自動車でアクセスできるところから、ずいぶんと歩かなければいけないこともそう思わせる要因であったかのように思う。

だけど、逆に今までのところのように自動車の駐車場からすぐアクセスできる場所ではなく、たくさん歩く分だけ熊野詣をしている感は出ていた。

昔の人はもっととんでもない距離を歩いていたんだろうけれども。

 

繰り返すが海沿いの山の中にある、というだけ本宮とはまた別の雰囲気がある那智

他の熊野大社と同様、その信仰は完全に神仏習合であり、明治期に神仏分離令が出されたことにより、那智大社が成立した。

 

しかし、本宮大社や速玉大社とは違い、仏堂は完全に破却はされず、特に西国霊場の一番を成す如意輪堂は青岸渡寺として独立することで生き残った。

 

青岸渡寺の本堂は那智大社の本殿のすぐ隣に位置する。彩色が鮮やかな那智大社の社殿と比べると、こちらは檜皮葺で歴史を感じさせる。なお、天正期の建物らしい。

 

なお、この那智山の麓(というか沿岸部)にある補陀落渡海で有名な補陀洛寺に行かなかったのは、相当なミスだ。だが、雨が強く、ちょっと億劫になってしまったことが要因。でも、どうせこの地はまた来るだろうから…と自分に言い聞かせた。

 

そして、この本堂のあるあたりから有名な那智の滝が見えていた。

 

そこからしばらく行くと、戦後に再建された三重塔があり、そこと那智の滝のセットが那智大社ないし青岸渡寺の一番有名なカットとしてよく見られる写真になる。

 

那智の滝自体は青岸渡寺那智大社から少し下ったところにある。車に乗ってしばらく移動して訪れてみた。

 

ここでは滝そのものがご神体で祀られている(飛瀧神社)。

 

雨が厄介であったが、雨に煙るこの雰囲気もまたいいものがある。

荘厳で、そして幽玄で。

自動車のおかげで道のりはそれほど苦でもない上、各所各所は遍く観光化しているが、それでもこの光景こそが熊野詣なのだと思う。

 

あとは帰るぞ、ということで再度、紀伊半島の東側へ戻る旅。

徳島で借りたレンタカーは乗り捨てで南紀白浜空港へ返却することになっている。

 

途中、串本町橋杭岩の光景を見たり…


途中、本州最南端・潮岬と紀伊大島に立ち寄り、明治23(1890)年9月16日、和歌山・串本沖で遭難したトルコ(オスマン帝国)軍艦、エルトゥールル号の記念碑と記念館を見た。

何しろ、このことがトルコではいたく感謝されているという風説が出回り、イラン・イラク戦争時、日本人のイランからの退避にトルコが協力した理由として、英語の教科書にもこの話は載っているらしい。

トルコ国民が本当にそこまでエルトゥールル号のことで日本にいつまでも感謝しているかどうかその真偽は検証する必要があろうが、ともかく日土友好の証としてこういう記念碑や記念館があるのは良いことではあると思う。

 

なお、潮岬付近では折しも雨が強く写真を撮っていない…

そこからさらに北上し、無事、南紀白浜空港について車を返したが、帰りは飛行機が飛ぶか非常に危ぶまれるほどの暴風雨であった。

紀伊の国の神々が(ある意味)私たちの帰京を寂しがっているのかわからないが、チェックインカウンターにいたJALのお姉さんは「本日、悪天候ではあるけれども、よっぽどのことがない限り、欠航はないと思います…」とあまりにもサラリと言うので、ほぼ飛ぶものと確信するに至った。

 

帰りの飛行機は機内サービスのドリンクの提供が一切できないほど、ずいぶん揺れたが、自分が一番信頼するエアラインであるJALの対応は見事なもので、羽田到着後に希望者にドリンクを出してくれたので頂いてから降機した。

 

こうして羽田空港から夜に至り、家に戻り、徳島・兵庫・和歌山と巡った私たちの長い旅は終わったのであった。

 

山につけても、海につけても、とにかくこの紀伊半島は私を惹きつける。

ぜひともまた行きたい。そんな旅であった。

(終わり)

 

※試験的に(というか面倒臭くて)写真のリサイズ(縮小)をせずに原版を放り込みましたが、どうなんでしょうか…

【備忘録】※将来それぞれの項目を立項する時用

※田辺への憧れ

南方熊楠について初めて知ったのは子どもの頃であったが、彼についてインターネットで調べていたら、彼の娘の思い出話が載っていて、そこに「父が夜、書き物をする時の夜食に母はよく鶏の天ぷらを揚げていた」という話があった。

私が自分の母にそのエピソードを言うと、「鶏の天ぷら、おいしそうね。今度やってみようか」と言ったのを覚えている。何しろ、我が家では鶏のから揚げは母はよく揚げていたが、鶏の天ぷらというのを食べる文化はなかったのである。

それと同時に夜(私がイメージしたのは夏の夜だった)、鶏の天ぷらをむしゃむしゃ食べながら、本を読むあの南方熊楠の姿が思い浮かんできた。

そして、彼が野山を歩き回って粘菌を集める…そんな町が田辺なのだと思うと、そこへ無性に行きたくなったのである。

おそらく温暖で海も山もあって、(私の勝手なイメージの中で)湿っぽい田辺の町は、私が幼少期を過ごした鎌倉と重ね合わせられる面が大きかったのであろう。