類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

河口湖の周辺に行ってきた3(根場集落の死と再生)

車に戻った僕らは河口湖畔を進みます。 途中、「道の駅かつやま」によって休憩した頃はまだ午後3時前だったのですが、折からの曇り空のもとなんだかだいぶ暗くなってきてしまいました。空気もだんだんと冷たくなっていきます。 最後の目的地は「西湖いやしの里根場(ねんば)」。台風災害で壊滅した茅葺集落を復元、展示している施設です。 西湖の湖岸にたどり着いたころには対向車も後続車もぜんぜんないような状況でした。 すっかり赤くなった紅葉を見ながら、看板を頼りに「西湖いやしの里根場」に向かいます。 ところが意外にも駐車場には平日のわりに車が多く止まっていて、それなりに賑わっています。 僕たちは駐車場に車を置くと、「西湖いやしの里根場」へと歩いていきました。 いきなりヤギさんがお出迎え。なんだか日本テレビDASH村を思い起こしてしまいます。

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 しばらく観察していたら、お一方のヤギさんがこちらに向かってきました。 何もあげるものはないので、入口のほうへ急ぎます。 IMG_4440.JPG

 

入口にたどり着き、振り返ると富士山が見えます。 IMG_4442.JPG

 

かつては富士に抱かれた静かな集落がここにあったのでしょう。 IMG_4441.JPG

 

入場料を払ってここから入ります。

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茅葺の家は20軒ほどあるそうです。

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茅葺の家の中はそれぞれお土産物屋や工芸品の展示、そば処、砂防資料館などとなっています。

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ちゃんと見ていなかったのですが、一軒ぐらい民家の暮らしを再現したものや、ゆっくり休憩できるところがあってもよかったような気がします。まあ、入ってみたお土産物屋のご主人は親切でしたが。

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砂防資料館ではこの根場集落を襲った土砂災害の記録を見ることができます。 IMG_4447.JPG

ここ西湖のほとり旧足和田村根場(ねんば)集落には「かぶと造り」の茅葺集落がありました。しかし、昭和41年(1966)、日本列島を直撃・縦断した台風26号の集中豪雨により、背後の山が崩壊、土砂崩れとなって集落を襲いました。泥の海となった集落に足和田村と隣の勝山村消防団、警察、消防が駆けつけ、さらには自衛隊まで投入して住民の救助と捜索を行いました。しかし、連日に及ぶ懸命な救助活動もむなしく西湖集落と合わせて94名の人々が亡くなりました。 災害の後、集落は再度土砂災害に見舞われる可能性が高いことから、根場集落の住民たちは西湖対岸の青木ヶ原に集落を開拓し、そこに集団移転しました。ちなみに現在の当地は砂防ダムが設置されているようです。ただ、山体がどのように崩落したかは、今でも実地を見るとなんとなくわかるような気がします。根場集落の背後はかなり急峻な谷となっています。 根場集落の復元と展示事業がスタートしたのは足和田村勝山村河口湖町と合併し、富士河口湖町となった平成15年(2003)のことです。

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平日にも関わらず観光客はわりと多かったです。 IMG_4449.JPG

 

神社です。なんと読むのかはわかりませんが、「薬明大神」とあります。 IMG_4450.JPG

 

根場集落で考えたことは、我々の生活はいつどんな時代であれ自然災害に常に直面しているということです。今年の東日本大震災紀伊半島豪雨災害のみならず、日本人は歴史上常にその災禍の中にあったのです。 どんなに科学技術が進んでも、その災禍を免れることは決してできないのです。 だからこそ、復興や再生における判断や選択をその場限りのものとしてはいけないような気がします。歴史学が本当にそれに直結する学問であるかは疑問ですが、少なくとも重大な「歴史」を体験した人々たちには、その責任があるように思いました。 (終わり)