類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

秩父地方に行ってきた3(音楽寺の秩父困民党碑)

秩父神社をあとにした私たちは再び車に乗り込み、荒川を渡って音楽寺というお寺に向かいます。音楽寺は秩父市街地から見て西側の山腹にあり、一帯が公園となっているようで駐車場には困りませんでした。この音楽寺は臨済宗のお寺で、秩父霊場の23番にあたりますが、秩父事件で有名な鐘があることでも有名です。 秩父事件明治17年(1884)の秋に起きた秩父地方の農民の武装蜂起事件で、激化事件の代表例とされています。事件はいわゆる松方デフレによる不況のもと、困窮した農民たちが「秩父困民党」を組織し、高利貸しへの返済延長や村民税の減税などを要求したことにはじまります。 この音楽寺は困民党が集まって、寺の鐘を鳴らし、それを合図に大宮郷(現在の秩父市街地)へ向かっていったといわれている場所で、現在は次のような碑が建っています。有名なものなので、みなさんも教科書などで一度は目にしたことがあるのではないでしょうか? IMG_5371.JPG 【写真をクリックすると拡大します】
「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを拒否しない」
秩父困民党無名戦士の墓)
「墓」の傍らには別の碑がありました。 IMG_5375.JPG 【写真をクリックすると拡大します】
この墓は日本の近代民衆史上誰の手によっても決して消し去ることのできない秩父困民党の多くの無名戦士とその斗い(原文ママ)を正しく復権顕彰するために秩父をはじめ日本全国の心ある人々の力によって建立された
吾々は債鬼の強迫をのがれ家に老幼をおき山野を放浪するまでに貧困の極に達した秩父の農民を救うため高利貸警察郡役所そして時の明治政府に対して自らのもつ実力で立ち向った秩父困民党と秩父の多くの農民戦士のことを忘れない
常にその斗いの先頭に立ち自らのため秩父の貧しきもののため日本中の虐げられし人々のためその力と連帯を信じて人知れず斗い倒れていった多くの無名戦士のことを決して忘れない
誇り高き秩父の農民とそして秩父困民党の無名戦士たちに栄光あれ
 一九七八年十一月二日 建立 秩父困民党決起百年記念会事業委員会
実際にこの「墓」の下に、ここに秩父事件に関与した人たちが埋葬されているわけではないので、そういう名前の石碑に過ぎないのですが・・・ どうも傍らにあった碑の文面は一面的な見方に過ぎないと思いました。確かに秩父事件の背景には困窮した農民の悲惨な生活があったことは確かですが、それをすべて明治政府の責任にしてしまう見方はどうなのでしょうか。「暴徒」であり、「暴動」であった歴史もまた事実であり、そこが秩父事件の評価を難しくしていると言えるでしょう。かつては歴史学では民衆史、とりわけ農民闘争(これは近現代史に限らず、中世史もそうですが)が非常に持ち上げられた時代がありました。70年代にできたこの碑はそういった風潮をかなり反映しているような、そんな印象を受けました。 そんな碑がある音楽寺は今は非常に静かなお寺です。 IMG_5366.JPG これが例の鐘です。「この鐘を鳴らして秩父市内へ向かったと言われている」とされているところが気になりました。実際のところはわからないのですね。近現代と言っても意外と史料がないものなのですね。 IMG_5369.JPG IMG_5370.JPG 碑の背後からは秩父の市街地がよく見渡せます。このように見ていると感傷的な気持ちにもなりますが・・・ IMG_5376.JPG 私たちがこういったものを考える際は、たいていは「多くの人に同情される」側につきたがりますが、被害者感情のみでは事実を正確に理解することは難しくなります。事情や背景を精査した上で、トータルの歴史を見ることが歴史学の使命です。それをしないで安直な結論を出すことは避けねばなりません。 さて、次も秩父事件関連の史跡を訪ねます。 (続く)
秩父困民党 (1968年)

秩父困民党 (1968年)

  • 作者: 西野 辰吉
  • 出版社/メーカー: 東邦出版社
  • 発売日: 1968
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