類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

忍性の足跡を訪ねて【後編】(三村山極楽寺跡・つくば市)

美しい小田の町並みを歩きつつ、本題の忍性のことに戻りたいと思う。良観房りょうかんぼう忍性は建保5年(1217)、大和国に生まれた。父は伴貞行とものさだゆきというが、私は彼が何者なのか調べきれていない。伴氏という姓からみて、上流階級であることは間違いなさそうだ。両親に伴われ、信貴山にしきりに参詣したこともあり、彼の文殊信仰はそこから始まったという。彼の両親にとって忍性はただ一人の男の子であったという。このため、父母の彼に対する愛は深く、ことに母親の寵愛を受けたという。 IMG_2671.JPG

 【ここまで】

pt-watcher.hateblo.jp

◆PART1 母、その愛

忍性が14歳の時、その最愛の母は病に倒れた。

やがて病状が悪化した母は、今際いまわきわに及び、忍性にこう言った。

「お前の出家した姿を一目見たい…この目でそれを見てから死にたい…それが母の願いなのです」

母の最期に臨み、何とかその願いを叶えたいと思った忍性は、俄かに髪を切り、法衣を着て、僧形となって母に見せたという。

それは忍性が16歳の時だった。

母はやがて亡くなったが、その菩提を弔い、彼女が自分になしてくれた慈愛に報いんがため、東大寺で戒律を授かり、24歳の時、大和・西大寺叡尊(えいそん、えいぞん)を師として出家を遂げた。

爾来(じらい)、真言密教の教学を学び、戒律復興に尽くす一方、忍性が文殊信仰に基づいて、貧者や病人、殊更奈良の北山十八間戸に代表されるように当時「不治の病」とされたハンセン病患者の救済に尽くしたことはよく知られている。

言うまでもなく、日本の社会福祉史上に広大な業績を残した僧侶である。

 

◆PART2 不殺生の石碑

小田城跡から北東へ集落を進むと、民家の敷地内に「三村山(みむらさん)不殺生(ふせっしょう)界碑(かいひ)」という石碑がひっそりと立っていた。

IMG_2622.JPG

 

戒律の復興を重視する忍性らのグループは律宗という。

戒律とは仏教で修行する者や僧侶が守らなければならない規律をいう。

戒律を守る、というのは仏教者としては当たり前じゃないか、と思うが、要するに律宗の戒律復興運動とは仏教の原点回帰を意味する。

忍性やその師の叡尊にみられるような中世期の律宗の活動は教科書的には鎌倉新仏教に対する対抗革命ととられがちだが、律宗のグループはむしろ新仏教の側ではないか、という研究者もいる。

この石碑にはその戒律に基づく「不殺生」の戒めが記されている。

IMG_2627.JPG

 

石碑には「三村山 不殺生界」と記されている。

また、「建長五年癸丑 九月十一日」という紀年銘が彫られている。

建長5年は西暦だと1253年。鎌倉幕府の全盛期である。

摩耗のため、いまいち字は読み取れなかったが、「不殺生」という字は私の目でも明確に読み取れた。

IMG_2627SUP.JPG

 

◆PART3 宝篋山への道

小田城跡の駐車場に戻り、車に乗り込んで小田城跡の北東方向にある宝篋山(ほうきょうざん)の麓にやってきた。 IMG_2639.JPG

宝篋山への登山は人気のコースらしく、麓の駐車場には平日にも関わらずたくさんの車が並んでいた。 車を置くと、ここから私は一人、宝篋山の麓にあったという三村山(みむらさん)清冷院(せいれいいん)極楽寺の旧跡を目指した。 IMG_2642.JPG

時刻は午後2時頃。荒涼とした春先の寒い農地の道を一人進んだ。 IMG_2643.JPG

ただ、登山をするにはもうこの時間帯は下山の時刻らしく、道にて出会う人はみな山から下りて来た人たちだ。みな、結構しっかりとした装備をしている。宝篋山の登山はそれなりな装備が必要らしい。

だが、私は宝篋山の頂上までは行かないのでその装備は必要ない。

 

◆PART4 湯地蔵

やがて、別の道との合流点に、石龕(せきがん)に入った石地蔵があった。 IMG_2645.JPG

このあたりから建長4年(1252)に大和から関東に東下した忍性が約10年ほどを過ごした三村山極楽寺の旧跡に入る。

IMG_2647.JPG

この地蔵菩薩の石像も極楽寺に関係するものとみられ、「大檀那左衛門尉」によって正応4年(1291)に建立されたことが銘文によってわかっている。

解説板【クリックで拡大】

IMG_2646.JPG

茨城県指定彫刻 石造地蔵菩薩立像(石造龕を含む)
昭和三十七年十月二十四日指定
像高 一五七・五cm
 このあたり一帯は、三村山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を「尼寺入り」といい、かつては、僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでいたことだろう。
 建長四年(一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地にとどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔などが現存する。それらは、忍性止住の間につくられたものかどうか確証はないが、西大寺律宗文化の介在とその影響のもとに、造営されたことは明らかである。
 忍性は弘長元年(一二六一)鎌倉に去る。本像はその二十八年後の正応二年(一二八九)に造立されたものである。仏龕奥壁の左右に、次の銘文が刻まれている。
(右)右為法界衆生平等利益也 旦那左衛門尉
(左)正應二年〔巳丑〕十一月十日造立 勧進佛弟子阿浄
左衛門尉は小田氏の四代時知か、あるいは五代宗知に推定される。阿浄は「西大寺有恩過去帳」にその名が見える。
本像は、約七〇センチ角の方柱状花崗岩を使って、その一石に、本体及び蓮華座、そして錫杖・宝珠・頭光を高浮彫り風に彫出し、背面を残して奥壁とする。この両側に幅約六〇センチ、厚さ一六センチの側壁を立て、上に屋蓋を乗せて龕を形づくる。惜しくも相輪を欠失するが、ほかは全て当初のままである。
 俗に「湯地蔵」といわれ、安産と乳が出るようにという祈願のために、小田の人々によって守られてきたのである。
 本像は鎌倉時代後期の在銘石造地蔵菩薩像として、また屋蓋付の石龕におさまる完好の遺物として、美術工芸史的にもきわめて重要な作品である。
 平成元年三月
つくば市教育委員会

これによると地元では「湯地蔵」と呼ばれ、安産と母乳の出が良くなることを願い、信仰されたという。

IMG_2652.JPG

 

◆PART5 五輪塔

湯地蔵のあるところから再び宝篋山へ向かって歩いた。 IMG_2655.JPG

やがて「極楽寺公園」という小さな東屋がある広場に出た。 IMG_2656.JPG

ここに極楽寺のことが詳しく書いてあった。【クリックで拡大】 IMG_2658.JPG

極楽寺と忍性について
ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれてきたが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。
極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。新たに領主となった者がその領域内の寺院や神社を修復したり、寺社領を寄進したりするのは通例のことであった。それは民心を掌握するための手段であった。八田知家によって造営された極楽寺の規模については全く不明であるが、この時寄進された鐘は土浦市の等覚寺に現存する。
奈良西大寺の僧忍性がこの地に来たの建長四年(一二五二)のことであった。仏法を興隆し衆生に利益せんとする一大発願に基づくものであった。当時の僧侶は髪を剃り僧衣を着てはいるが、実際のところは僧として守るべき戒律も知らず、僧として勤むべき修行も怠る有様であった。こうした中で忍性は戒律を弘め、あるべき正しい仏の教えを説いた。その影響は周辺にまで広く浸透し、この極楽寺について常州三村山ハ坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺ナリといわれるまでになった。
正嘉二年(一二五七)に至り、忍性は極楽寺の堂舎を一新した。それが今に残る極楽寺の遺址である。山腹には薬師堂がそびえたち、山裾には僧寺と尼寺が並びたって、壮麗な景観であったことだろう。建物は失われたが、戦火を免れた石造物は小田の地に数多く残っている。不殺生界碑・石灯籠・宝篋印塔・地蔵菩薩立像・五輪塔など稀代の名品である。
忍性は小田の地を去って鎌倉に移った後、鎌倉の極楽寺においてその生涯を終った。
平成二十六年四月 宝篋山整備隊

そこからやってきた小田の町並みを見渡した。 IMG_2659.JPG

極楽寺公園から登山道を外れて、小さな小径へと分かれた。 IMG_2680.JPG

 

ところで叡尊や忍性の布教の中心となった文殊信仰とはどのようなものであろうか。

文殊菩薩と言えば、「三人寄れば文殊の知恵」という諺(ことわざ)があるように、一般には知恵の仏様として知られている。

一方で文殊菩薩は困窮した者や非人の姿に身をやつして現世に現れるという。

この時、この者に慈悲の心をもって救済活動ができた者は、文殊菩薩への供養を行ったことになる。

文殊菩薩を礼拝することによって、生命の罪過は滅することができる。

この教えは『文殊師利般涅槃経』という経典に説かれているのだが、叡尊や忍性の非人救済が、このような文殊信仰を基軸としたものであるとわかれば、忍性の非人救済の原動力を知ることができる。

ただ、この部分だけを知ると忍性の活動は、結局は自らのために非人の中にいるであろう文殊菩薩との結縁を求めるだけのものではないか、という印象を受けてしまう。 すなわち自己本位、自分自身のためだけの非人救済、ということだ。

ただ、そのようなイメージは非常に一面的である。 忍性の活動は、単に自らが文殊菩薩と出会いたいという動機だけではなかった。

文殊菩薩への礼拝を説き、供養することによって、非人たちの救済を企図する。 すなわち、自らの修行と同時に非人たちの救済を行うというものであったのだ。

 

やがて、小径の奥に五輪塔が現れた。

IMG_2665.JPG

ここは三村山極楽寺奥の院にあたる場所である。 IMG_2661.JPG

解説板【クリックで拡大】

IMG_2664.JPG

石造五輪塔花崗岩 総高二七六・五cm) つくば市文化財
三村山清冷院極楽寺奥の院の本塔は、石造基壇の上に辺長一四三センチ、高四四・五センチの基礎をすえ、その上にこの五輪塔が立つ。
基礎は側面を二区に分ち、各々に流麗な格座間を作る。基礎上面は反花座とし、中心五葉と両端に位一葉ずつの間弁のある単弁蓮華文を各面に彫出する。
地輪は幅一〇七・五センチ、高七〇・五センチ、きわめて整美に彫成されている。水輪は最大径九五センチ、高六九・五センチあり、やや扁平な形状ながら、満々たる張りを示す。火輪は最大幅一〇四センチ、高六〇・五センチあり、軒は中央部で有るか無きかわずかに反り、端に至って鋭く豪快に反り上る。軒口は鮮やかなまでに垂直に整えられ、屋根流れは少しのよどみもない。風・空輪は一石で最大幅四七センチ、高七五センチ、風輪は重厚な曲線を描き、空輪ははちきれんばかりの張りがある。全体として、均整のとれた、力強い作品であり、鎌倉時代後期の全国的にも珍しい本格的な五輪塔である。
鎌倉後期の完成された様式の五輪塔の中でも、一連の作風を示すものが西大寺系石工による作品である。奈良西大寺叡尊五輪塔、鎌倉極楽寺大和郡山額安寺の忍性五輪塔がそれであり、忍性ゆかりの三村山極楽寺の本塔もこの流れに属するものと考えられる。
NPO法人小田地域振興協議会
つくばスタイル事業

律宗には優れた石工が関わっていたとみえ、各地の律宗寺院やその関係地には中世期の優れた石造物が残されている。

忍性の関東下向の際も、大和の石工が引き連れて来たため、箱根や鎌倉に立派な石造物が今も残されている。

 

…どうでもいいが、湯地蔵のところからここまでの3枚の解説板だが、設置者はそれぞれ別々の団体なのだが、文章を書いている人は同じのようだ。

書き起こしていると、文章の癖、使われている漢字の選び方、句読点の一、言い回しに共通点がみられる。

 

IMG_2673.JPG

 

さて、その解説板によると、この地にあった極楽寺の詳細はよくわかっていないが、平安時代の創建であると伝える。

その後、鎌倉時代に小田氏の祖となった八田知家が再興し、先に述べたように鎌倉後期に忍性が入寺し、関東の律宗布教の拠点となった。 IMG_2675.JPG

 

ただ極楽寺は戦国時代に兵火に遭い、その後、再建されることはなかった。 IMG_2678.JPG

今はこのような石造物だけが、忍性の足跡を僅かに伝えるのみである。

 

◆PART6 忍性と日蓮

ところで忍性が社会福祉に貢献し、それが文殊信仰によるものであったことはすでに述べたが、どうもその詳しい事情を知らない者には、忍性は「偽善者」とうつるようだ。 忍性を激しく非難した人物として、同時代人では日蓮が有名である。

 

日蓮法華経至上主義に基づき、いわゆる「四箇(しか)の格言(かくげん)」といって「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と、真言宗禅宗、念仏信者、律宗を激しく批判し、日蓮は忍性本人に手紙を書き、「早く心を改め、私に帰依しなさい」とまで言っている。

日蓮の忍性に対する批判は、よくもまあここまでの悪口を当人に対して言えるものだ、呆れてしまうくらいだ。

よっぽど嫌いだったのだろう。

ただ、実はこの日蓮の忍性批判は、日蓮には日蓮の言い分もあって、それはそれで理にかなっている面もあるので、日蓮が単純に忍性に対して嫉妬していて、彼の悪口を言ったわけではないので、考え方の違いに過ぎないのだが…… ところで忍性は日蓮にここまで罵られて何と答えたのであろうか。

その史料はまったく残っていないので、忍性がどういう反応をしたかはわからない。 批判にいちいち反論したのであろうか。

それともサラッと受け流したのか。 決まっている。 文殊菩薩の姿を見出そうと、あれだけの広大な慈悲を施した忍性のことである。

日蓮の悪口など、聞く価値にも値しなかったであろう。 それとともに日蓮の忍性に対する憎悪は、忍性の活動がそれだけ注目されるべきものであったことの証左でもあると言える。

 

昨年(2017)は忍性生誕800年の年であった。 これを記念して、宝篋山の山頂には、地元の有志らによって2017年に銅像が建立されたという。

IMG_2681.JPG

忍性菩薩の足跡を訪ねる旅は、まだまだ続きそうだ。 IMG_2682.JPG 

(おわり)

【参考文献】
和島芳男 『叡尊・忍性』(人物叢書吉川弘文館、1988年)
松尾剛次『鎌倉新仏教の誕生―勧進・穢れ・破戒の中世』(講談社現代新書、1995年)