長篠城址の見学を終えた私たちは医王寺というお寺に向かいました。長篠城址から車で5分ほどのところです。
曹洞宗のお寺ですが、武田勝頼の本陣が置かれた場所です。長篠城からこんなに近いところに勝頼の本陣があったということは、長篠城は相当包囲されていたんですね。
もとは大きなお寺であったようですが、今はひっそりとしています。
お寺の前は、アスファルトで舗装された広い広場のようになっています。
何も線とかひかれていませんが、駐車場のようです。
というわけで、適当に車をつけます。
やたら説明の案内板類が豊富。
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池があって弁財天の祠がありました。
この池は弥陀が池というようですが、この寺の字(あざ)の名前が「弥陀前」ということでして、何か由来がありそうです。調べてないのですが。
こういう池の島に祀られた弁財天は、小さいものから大きいものまで日本各地にありますよね。
ほんでもって山門です。
山号は長篠山(ちょうじょうさん)
これは庫裏でしょうか。
こちらは本堂。
中に入れたみたいですけど、なんかおじいさん、おばあさんの集団が見学していたので、ちょっと入る雰囲気になれず・・・
まあ、それはともかくとして、
この医王寺に設けられた本陣で勝頼はここで軍議を開き、織田・徳川連合軍との決戦を決めたわけですね。
よく家臣たちは、退却を進言したが、勝頼は聞かず、この時すでに家臣たちは負けを予想し、死を覚悟した・・・なんて話があります。
勝頼はどうも昔から凡庸に見られてしまうので、そういうお話が出てきたのでしょう。
親父の信玄と比べられてしまうのと、滅亡時の当主だったことがその要因かもしれません。
そういった医王寺なのですが、私には長篠の戦いよりも・・・
この境内にあった民俗資料館なるものに、インパクトを奪われてしまいました。
中に入ってみると、こんな感じ。
新城市のホームページによると
医王寺民俗資料館は、この地域で使用されていた大型の古い農具や生活用品などの民俗資料が多く展示されており、懐かしい体験と先人が残してくれた生活を知恵を学ぶことができます。
と説明がなされているのですが、どう見ても古い民具の倉庫です。
これを展示というのにはちょっと無理がありそう。
だけど、なんかとってもおどろおどろしいものを感じました。
なぜなら・・・
この写真の右側に写っている御神輿みたいなやつなんですが・・・
これ・・・土葬の時代の葬送に使った龕(がん)じゃないだろうかと・・・
土葬の時代、なきがらを立棺という棺に入れるわけですが、それをお墓まで運ぶ時に使う籠を龕(がん)と言います。
私が民俗学の本とか映像で見た龕(がん)は、こんな御神輿みたいなやつだったのですが、これは龕(がん)じゃないですかね?
どうなんでしょう?違ってたらすいません。誰か民俗学に詳しい人はご教授願えれば幸いです。
何にも説明がなかったのでわからないんですがね・・・
別のアングルから。なんか御神輿にしては装飾が少ないような気がするんですよねー
そんなこんなでなんか不思議なものを見てしまった感じでして・・・
収蔵品はとにかく雑多なものが多く、こんな駅名標まで。
ちなみにこれは現在の飯田線のものではなく、飯田線の本長篠駅から伸びていた豊橋鉄道田口線(廃線)のものです。
豊橋鉄道って会社は今でもありますが、その会社がなぜここに線路を持っていたかというのはかなり複雑な歴史があります。
もともとこの鉄道を敷いたのは木材輸送のためで、田口鉄道が本長篠駅から三河田口駅までを結んでいました。
この会社が後に名鉄、さらには名鉄傘下の豊橋鉄道の下に入り、豊橋鉄道田口線となったとのことです。
ところでこの地域を縦断する飯田線は、もとはいくつかの私鉄の会社によって敷設され、その後国有化を経て、JRになったのですが、この田口線は国有化されなかったようです。
一時は鳳来寺への参拝客輸送も担っていたようですが、昭和43年(1968)に全廃となりました。
今じゃ跡形もない感じなので、そんな鉄道があったとはこの看板を見るまで知りませんでした。
広告付の駅名標や・・・
時刻表なんかもありました。
医王寺はそんなこんなで不思議なお寺でした。
いや本当に感想は「不思議」という言葉に着きます。
不思議な雰囲気のお寺でしたね。
まあ、でも行ってみてよかったかなって感じです。こういう雰囲気は好きです。
さてさて、そんなこんなで私たちは車に乗り込み、次の目的地へ向かいました。
(つづく)