磯長の叡福寺をお参りしようとしたが、アクセスが不便なためタクシーを拾う目的のためだけに降り立った富田林。しかし、富田林と言えば中世の寺内町(じないまち)で有名でもあるため、ついでならばと見てみよう、と思った。
富田林の寺内町は、近鉄の富田林駅から徒歩だと10分くらい歩いた場所にある。閑静な住宅街を歩くと、やがてその領域が静かに近づいてきた。
寺内町とは、中世期、特に室町時代に形成された寺院の境内地にできた町のことである。
よくわかりにくいが、寺院と一体化した町と言えばよく、寺社を中心に参詣客相手の商業地が発展した門前町とは性格が異なる。
寺内町の代表例は、石山本願寺の大阪、金沢御坊の金沢、称念寺の今井などである。
中心寺院は浄土真宗の寺がほとんどであることと、こういった寺内町の形態をとる町は関東にはないことが特徴だ。
そして、現在の大阪府に該当する地域にとても多い。
ここ富田林も戦国時代に浄土真宗興正寺富田林別院を中心に発展した寺内町である。
真宗独特の宗教自治都市であったが、江戸時代には在郷町(地方都市と言うべきか)に変化していった。
現在の町観は、町割りにしても残された建造物にしても近世期以降のものが中心で中世のものは残っていないようだ。
近鉄富田林駅南口から一路南へ。住宅地の中を「じないまち交流館」を目指して歩く。
市場筋から「じないまち交流館」へ向かって東進すると、さっそく古めかしいお屋敷が目立つようになる。
「じないまち交流館」前。観光案内所のような施設で、案内パネルなどがあった。
郵便ポストがいい味を出している。
そこから歩いて行って城門筋との交差点。見える建物は「東奥谷家住宅」。
西向にある奥谷家の分家で、文政9(1826)年の建築であるという。
寺内町遊園という空き地を経て、
亀ヶ坂筋を今度は南進。佐藤家住宅前。
近世期のものではないが、レトロな眼科医院の横を通り、富田林興正寺別院の方向へ。
ここは浄土真宗妙慶寺の横。
城門の筋へ再び出る。
こうして寺内町の一番中心たる興正寺別院にやってきた。城郭のような鼓楼(ころう)が特徴的だ。
浄土真宗興正派の寺院。京都山科にあった興正寺の別院(富田林御坊)で、富田林寺内町は、永禄年間に興正寺別院の証秀によって開発された宗教自治都市である。
この本堂を含む6棟が国の重要文化財の指定を受けている。
いぬー!尾っぽが短いワン。
富田林御坊は石山戦争時、石山本願寺側につかなかったこともあり、信長による焼討ちは免れたようだ。
近世期以降は在郷町として栄え、南河内の商業の中心地となっていった。
その痕跡はこんなところにも…
「寺内町センター」の向かい側にある「旧杉山家住宅」。杉山家は、ここ富田林の中でも屈指の大地主であり、酒屋であった。
この杉山家は、寺内町創立以来の旧家であり、近世期を通じて富田林の町の経営にかかわってきた。酒屋として成功して以降は、大変な繁栄をしたようだ。
現存する主屋は17世紀中期頃の土間をもっとも古いものとし、延享4(1747)年頃にほぼ現在の形ができあがったとされる。重要文化財の指定を受けている。
しかし、そんな旧家の貴重な建造物もさることながら、この旅で知ったことの中でも、ひときわ哀れだったのはこの石上露子(いそのかみつゆこ)のことであった。
石上露子。本名は杉山孝(たか)。
明治15(1882)年、杉山家の長女として生まれる。幼時から古典や漢籍、琴などに親しみ、22歳の時に与謝野晶子らの活躍で有名な『明星』に短歌を発表。以後、詩や小説などを手掛けた。幼少期から触れてきた古典の教養をもとにした華麗な作調で、新詩社の社友となると、与謝野晶子らとともに「新詩社(『明星』を発行した結社)の五才媛」と称された。
しかし、旧家の長女だったこともあり、明治40(1907)年に旧家同士の婿養子縁組で結婚。しかし、結婚した夫は妻の文筆活動に理解がなく、新詩社を退社させられ、文芸活動から一切身を引かざるを得ないこととなる。
夫との間にもうけた2人の子どもは、それぞれ病死と自殺で失い、また夫の株投機の失敗から杉山家は没落し、夫とは別居するなど不遇な生涯を送った。晩年は生家で過ごし、昭和34(1959)年に死去した。
わずかな文筆活動の間ながらも、代表作『小板橋』を残す。これは東京で出会い、思い焦がれるも、旧家の宿命を背負って、とうとう結ばれることの叶わなかった恋人に対する思いを詠んだもので「絶唱」と評された。
家は没落し、露子も不遇な生涯を送ったが、主屋を筆頭に酒蔵など往時を偲ばせる建物を見学することができる。
なお、この日は建物内で「おとぎの国の灯り展」をやっていた。
人も少なく、なかなか幻想的な光景でよかった。
どんな町でもその町に残された色濃いストーリーに出会えるのが旅の醍醐味だ。
ただし、ふらっと訪れた旅人は、所詮その町で繰り広げられた様々なストーリーのきわめて表面的な一端しか知ることはできない。
富田林駅前に戻った私たちは、そこからタクシーをひろって、一路、叡福寺に向かうのであった。
(おわり)