類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

富岡製糸場(富岡市)

Go toキャンペーンに東京も追加されたことだし、ということで、久しぶりに車で遠出してきた。妻と遊びに車で出かけるのは、結婚してから初めてである。

どこに行こうか?といろいろ考えた。何かおいしいものを食べたい、と思い、神奈川県の三崎の方にでも…とも思ったが、せっかく出かけられるのに一度や二度行ったことがある場所はつまらない……ということになり、かねてから行きたかった富岡製糸場に行くことにした。

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 久々の休みの日曜日ということもあって、家をゆっくり出た(午前11時頃)。

しかし、台風の心配もあったせいか、この日はあまり人出は多くなく、道路も空いていた。

よって環八も練馬から乗った関越も、まったく混まずにちょうどお昼時に藤岡に。「道の駅ららん藤岡」で食事をとってから、再び上信越道に乗り直し、富岡インターで降りた。

 

上州富岡駅のほど近くの市営無料駐車場に車をとめ、市街地を約15分ほど歩くと、富岡製糸場についた。

 

富岡製糸場は2014年に世界遺産に登録され、その関係上、施設内の複数の建物が国宝に指定されている。

 

蚕の繭から生糸を作る製糸(せいし)業は、日本の近代産業の黎明期にその主力産業として、この国を支えた。

 

特に繭は国産できるものであり、外貨を獲得する重要な手段であった。

 

富岡製糸場は近代産業育成と、生糸の品質向上を図るために設立された官営模範工場に始まる。ここら辺のことは中学や高校あたりの教科書レベルで学ぶことだ。

 

このチケット売り場横にある建物も検査人館として利用されていたものだ。

 

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日本は製糸の技術、殊に手作業である座操製糸ではなく、機械を用いる器械製糸の技術はフランスから習得する。

この検査人館も生糸や機械の検査を担当したフランス人技師のために建てられたものだが、この検査人たちは素行不良や無断欠勤などでわりとすぐに解雇されたため、実際にここで暮らしていた可能性は低いとのこと…

 

まず入ると正面にこの東繭置所(ひがしまゆおきしょ)が私たちを迎える。国宝指定建造物。煉瓦造りの壁と鉄枠の窓が整然とならぶ姿が美しい。

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煉瓦造りでフランスの技術を用いて作られてはいるが、材料の大部分や実際に建てた大工は日本、しかも地元群馬産のものである。

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中央入り口の上部には、「明治五年」と彫られたキーストーンが今も残る。

明治5年は西暦で1872年で、富岡製糸場が操業を開始した年である。

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窓がたくさんある。

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ここは乾燥させた繭置き場。西側にも同じくらいの規模の倉庫があるが、かなり大規模な建物である。

こればかしは実際に見ないとわからないが……

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内部は現在は富岡製糸場の歴史などを紹介する展示がなされている。

これは初期の器械製糸の機械である。

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そして、こちらは従来の座操製糸の機械。

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従来、手作業で行われていた日本の製糸だが、品質が揃わず、しかも手間もかかるので器械製糸の導入が必要であった。

 

その際に明治政府のいわゆる御雇外国人として、日本への技術指導等で活躍したのがフランス人のポール・ブリュナである。

洋式操糸器の導入にあたっては、日本の気候や日本人の体形にあわせた改良を行うなどしているが、他の御雇外国人と同様、かなりの高額な給料は、明治政府内でも問題になっていたようだ。

 

「人は絶対に乗るな?」

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それにしても蚕の繭、ほどくと全部一本の糸になっている、というのはすごい。

しかも、それをお湯に入れるとほぐれる、というのを発見したのもすごいし、それを撚り合わせて生糸にする、という作業もすごいね。

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東繭置所に沿って、敷地を南に進んでいこう。

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展示で新たに知ったことは、富岡製糸所は官営模範工場として創業した後、民間に払い下げられ、いくつかの会社に渡ったことであった。

まず、三井に払い下げされたが、三井の製糸事業は不振が続き、明治35(1902)年に原合名会社に譲渡された。なお、原合名会社は、横浜の三渓園で知られる原富太郎の会社である。

この期間は戦後恐慌や世界恐慌の影響で、製糸産業は苦境で、原合名会社の製糸事業も縮小を余儀なくされた。

やがて、原合名会社から分離された富岡製糸場は、昭和14(1939)年に岡谷で生まれた「シルクエンペラー」片倉兼太郎の片倉製糸紡績会社に合併された。

 

↓片倉兼太郎と岡谷の製糸産業のことについてはこちらを参照。

pt-watcher.hateblo.jp

 

以降、富岡製糸場片倉工業が所有し、昭和62(1987)年に操業停止するまで使われた。その後の工場の維持・保存に片倉工業は多大な貢献をし、それが世界遺産登録へつながった。

 

それにしても何度も見ても東繭置所の美しさと大きさに驚かされる。

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こちらはさきほどの検査人館。

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その斜向かいに変電所の建物が残されている。

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そして、繰糸所(そうしじょ)。

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どちらかといえば、ここが本来、中心的となるべき「工場」部分であろうか。

 

中に入ってみよう。

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機械が並んでいる縦に長い建物だ。

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もっとも現在並んでいる機械は、戦後になって開発されたもの。

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この機械は昭和62(1987)年に操業停止するまで使われていた。

繰糸機はこれ以上、発展進化する余地がないのか、同型の機械はいまだに世界で使われているとか。

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整然と機械が並ぶ姿は、美しい。

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工場の機械が動いていた時は、どんな様子であったのだろうか。今は見学者の声だけが響く、静かな繰糸場を歩く。

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建物はまだまだ続くが、見学は一部までしかできない。

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屋根はトラス構造。木造のようだ。

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繰糸場を出ると、再び敷地を南へ進む。

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なんか蔵があった。

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こちらは首長館。ブリュナ一家が暮らした建物だ。

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ブリュナが帰国した後は、工女たちが読み書きやそろばん、裁縫や行儀作法を学ぶ学習舎として利用されたそう。おまけに地下室もあるが、内部は非公開だ。

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こちらは診療所の病室棟。工場内にちゃんと診療所があるのだ。

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そして、こちらは工女たちが寝泊まりする寄宿舎。

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寄宿舎は敷地内に複数あるが、こちらは「榛名寮」という。

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他に「赤城寮」と「妙義寮」がある。

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全部、群馬の山の名前なのが、いかにも群馬らしい。

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さて、これで一通り建物は見終わったか。

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他に西繭置所の方へ向かう途中、東繭置所の二階が見学できた。

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こちらは西繭置所。この日はこの内部の見学はできなかった。なんか内部ではコンサートをやっていた。

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こちらも非常に大規模な建物。国宝である。

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煙突が見える。この煙突は4代目で昭和14(1939)年に建造されたものであるという。

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さて、一通り主要な建物の見学は終えたことになるが…

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あとは戻りがてら敷地の外縁にそって歩いていく。

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工場内の社宅が複数残されている。当然、いまはだれも住んでいないようだが、こういった建物も魅力的である。

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社宅から正門へと戻っていく途中には桑畑があった。

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出るのが遅くなってしまったので、すでに夕方。しかし、秋の旅は気候もちょうどよくやっぱりいいもの。

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少しの寂しさの中、富岡製糸場を後にします。

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夕暮れ迫る富岡の町。近くの古民家カフェで休憩。

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この後、妻といろいろ買い物して群馬を後にするのでした。

関越はあまり渋滞することなく、帰り道もスムーズでした。

(終わり)