類聚メモ帳PART2

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阿弥陀堂の大板碑と足利基氏の塁跡(東松山市)

これは埼玉時代の末期の話。もうすでに埼玉の職場の退任が決まり、3月の退職までの空虚な時間を過ごすのみとなった今年の1月のことだった。私が歴史好きだと知っていた職場の先輩から「この前、仕事で行った先に『足利なんとかの屋敷跡』みたいのがあったよ」と写メを見せてもらった。場所は東松山大東文化大学東松山キャンパスの近くであるという。興味を持ったので、たまたま東松山に隣接する鳩山に住む大学時代の友達に問い合わせたところ、それは『足利基氏の塁跡』のことだという。それでその友達を誘って車で行ってみたことがあった。

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ところが車を止める場所を探していると、たまたま「阿弥陀堂の板碑」なるものを見つけた。 車を阿弥陀堂の敷地内に止めると、案内板をしばし眺める。

【画像クリックで拡大】

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その後、奥に歩みを進めていると、小さな仏堂の周りに集落の墓地が広がる、いかにも埼玉らしい風景が広がっている。やがて辿り着いたのは…IMG_1667.JPG

墓地の中に屹立(きつりつ)する中世の大板碑(いたび)であった。

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案内板によれば、高さは2.6mにも及ぶ。東松山市内では2番目に大きい板碑であるという。

蓮華座に乗った胎蔵界(たいぞうかい)大日如来の種子(しゅじ)を刻む、大変美しい板碑である。

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素晴らしいのは摩耗があまりなく、刻まれた文字がいずれもはっきりと読めることだ。 

 紀年銘も「応安元年戊申 八月二日」とはっきりと読み取ることができる。 なお、応安元年は南北朝時代の1368年である。 真言偈文と願主などもしっかりと残されており、拓本をとったらすごい綺麗にとれそうだ。 案内板によれば、案内板によれば明超上人が中心となって、同門五十余名僧侶とともに真言密教の布教を願って建てられた結衆(けちじゅつ)板碑であるという。

 

こういった中世の石造物の原材料の関東における一大産地であった埼玉県(武蔵国北部)は、とかくこういった優れた板碑が多いことで知られている。

【参考】

pt-watcher.hateblo.jp

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阿弥陀堂から道路を挟んだ反対側には池(弁天沼、鳴かずの池)がある。 IMG_1660.JPG

弁天沼(鳴かずの池)
昔、坂上田村麻呂岩殿山に住む悪竜を退治し、首を埋めたところにこの弁天沼ができたといわれ、カエルがすみつかないところから「鳴かずの池」と呼ばれたと言い伝えられています。
東松山市観光協会

池には中島があり、橋がかかっている。 IMG_1661.JPG

橋を渡ると…

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小さな弁天堂があった。 IMG_1663.JPG

日曜日の静かな住宅地。 IMG_1664.JPG

周囲は近くにある大東文化大学の学生たちがマラソンか何かの練習をして走っていた。

 

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阿弥陀堂にそのまま車を置き、そこから歩いて3分ほど。 IMG_1681.JPG

足利基氏の塁跡に到着した。

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足利基氏と言えば、足利尊氏の子で、同母兄は室町幕府の二代目の将軍、足利義詮である。兄の系統が室町幕府の将軍位を継いでいったのに対し、基氏の系統は室町幕府が関東に置いた鎌倉府の長官である鎌倉公方を代々継いでいくことになる。 しかし、彼の生涯というのは、南北朝の動乱の中にあった。上杉氏の補佐のもと、貞和5年(1349)にわずか9歳で鎌倉に下るも、観応の擾乱などがあったため、文和2年(1353)から約6年間、入間川(元埼玉県狭山市)に在陣。父尊氏の死去後、対立していた畠山国清を討って、鎌倉入りした。 貞治6年(1367)、28歳にて死去。なお、彼の率いた鎌倉府は次第に京都の室町幕府と対立するようになり、東国の戦国時代突入のきっかけを作った。 なお、この場所は貞治2年(1363)に反乱を起こした芳賀氏との戦い(岩殿山合戦)の折に基氏が在陣した場所であるとされている。

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現地の案内板によれば、恒久的な城というよりは、現地豪族の屋敷に基氏が入ったものであろうとされている。

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こんな何の変哲もない住宅街の一角に残された中世人の足跡。 IMG_1689.JPG

基氏と言えば幕府に反抗的な鎌倉公方の初代というイメージしかないが、思えば動乱に明け暮れた時代に生まれ、抗争の中に絶えず身を置かなければならなかったその短い生涯から、私は彼にどこかもの悲しさを感じてしまう。 さらに反抗的なイメージとは裏腹に、笙などをたしなみ、和歌にも通ずる文化人であったというから、なおさらだ。

 

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友達とそのまま寄居の鉢形城などを見学し、帰路、東武線の男衾(おぶすま)駅に寄った。

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男衾と言えば、中世武士の生活の様子がよくわかる「男衾三郎絵詞」の舞台である。 IMG_1697.JPG

今や地名や駅名でしか残っていないものの、ここにも武蔵野の大地に生きた中世武士たちの名残りが残照のごとくあり続けている。 高坂駅で友達と別れた後、坂戸付近の東上線の踏切待ちがこの日の最後の写真となった。

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(おわり)