類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

円覚寺国宝舎利殿の特別公開

11月3日は文化の日で、例年この頃に鎌倉の円覚寺建長寺では「宝物風入れ」と称して、寺宝の特別公開をします。この宝物風入れ自体は、過去に何回か見に行ったことがあるのですが、円覚寺でこれにあわせて行われる国宝舎利殿の特別拝観に行ったことがありませんでした。昨今、中世の禅宗様建築に興味を持つようになり、地方に残る禅宗の建築を見に行く機会(山梨・清白寺最恩寺)がありました。それなのに、教科書にも載っているような禅宗様の一番代表的な円覚寺舎利殿を見たことがない、というのは難なので、この機会を利用して見に行くことにしました。

IMG_2295.JPG

 

 

 

 

しかし、この日、鎌倉へ向かう横須賀線は大混雑でした。

自分のようなブラック企業に勤めている人間は、休みがほとんどなく、休日出勤ばかり(しかも無給)なのですが、世間は三連休なのですね。

これじゃ、平日の満員通勤電車のようだ!

 

何はともあれ、円覚寺に到着。

ここもすごい人。

IMG_2297.JPG

 

と思ったら、参拝客の数は普段の休日とあまり変わらない様子。

ただ、ものすごかったのは御朱印の行列でした。

 

宝物風入れ自体は今回は行きませんでした。予定がタイトだったので・・・

 

それで舎利殿特別公開をしている塔頭(たっちゅう)の正続院(しょうぞくいん)へ直行

IMG_2303.JPG

 

正続院は、円覚寺の開山・無学祖元(仏光国師)の墓所ということで、円覚寺の開山塔がある塔頭

円覚寺に数ある塔頭の中でも一番重要な塔頭であり、本派道場が設けられている。

 

ただ、無学祖元は蘭渓道隆(大覚禅師)の後の建長寺の住職も務めており、亡くなったのも建長寺なので、もともとの無学祖元の塔頭建長寺にあったが、後に後醍醐天皇の命で夢窓疎石によって円覚寺に移されたそうな。

 

そんな正続院。普段は入れない門の中に入ると行列が…

IMG_2305.JPG

 

上の写真の正面に見える唐門の向こう側に昭堂がある。これが舎利殿であり、実はこの舎利殿のさらに奥に開山堂があるという。

 

…が、期待した撮影はできず(唐門内は撮影禁止)、しかも行列ができており、順番にお参りして終わり、というスタイルだったので、唐門内でじっくりと見学することはできなかった。

IMG_2308.JPG

 

ただ、間近で目にした舎利殿の感想は、「意外と小さい」というものだった。

IMG_2309.JPG

 

今まで写真でしか見たことがなかったので、巨大な仏堂のように思えていたが、かつて見て清白寺の仏殿(山梨市)や最恩寺(南部町)の仏殿よりやや大きい程度のサイズであった。

 

この舎利殿は、もともとの円覚寺の建物ではなく、現在の鎌倉市西御門にあった太平寺という尼寺から移築されたもので、建物自体は室町時代のものではあるが、鎌倉時代禅宗様建築の様式を現在に伝える好例として、国宝に指定されている。ちなみに鎌倉で唯一の国宝建築物である。

 

しかし、写真が撮れない、というのにはまいった。

IMG_2311.JPG

 

参拝客いっぱいは予想してたが、写真を撮らせてくれないとは…

 

もちろん、寺院は信仰の場である、というのはわかるし、わけてもここが円覚寺の中で特に重要な場であることは理解しているが、国宝たる文化財の価値の共有という面では、私に写真の一枚でも撮らせてくれても・・・という忸怩たる思いが残った・・・

 

そして、それが叶わないならば、せめて公開の日をもっと増やしてほしい。

神奈川県立歴史博物館に再現があるから、というのはあまりにも…

 

◆ ◇ ◆ ◇

 

国宝舎利殿の見学は消化不良だったので、隣接する塔頭の仏日庵へ。

IMG_2314.JPG

 

ここは、今度は開基である北条時宗墓所である。すなわち開基廟にあたる。

ちなみに子どもの北条貞時と、北条高時もあわせて祀られている。

IMG_2320.JPG

 

通常、非公開の開山廟である正続院とは違い、開基廟の仏日庵の方は常時公開されている。拝観料が別にかかるが。

なお、拝観料を渡すと火のついた線香を渡される。これでまず拝んでね、ということだ。

鎌倉の拝観料をとる寺院では最近、このスタイルが流行りなのかな?大町の妙法寺も同じスタイルであった。

 

境内では抹茶をいただくこともできる。

IMG_2322.JPG

 

開山廟で、重要な修行の場である正続院とは違い、こちら仏日庵はそんなこんなで観光客がのんびり抹茶を飲みながら休憩していたりと、ほんわかしている。

 

開基廟の中には、北条時宗北条貞時北条高時の三代の僧体の座像と位牌などがあり、これも見ることができる。

 

なお、山門前にこんな石碑があった。

 

「贈従一位北条時宗公御廟所」

 

従一位とは位階のことだが、贈とつくので死後の贈位である。

北条時宗の生前の位階は、正五位下が最高である。

正五位下…!?あんまり高くないな。まぁ、武士、いや幕府の幹部クラス、いや執権や得宗としての位階としては標準的か。ひいじいちゃん(泰時)なんかは正四位下までなってるけど。

 

・・・で、何で死後、従一位贈られたということだが、贈従一位は調べてみると、明治29年(1896)とのこと。

 

贈られた理由は明らかに元寇への対処からであろう。いわゆる元寇殉難者の関係であろう。

だが、この明治時代に贈られたタイミングというか、理由がすごい気になった。

この時期であれば、政府決定でしかも議会も関係しているはず。

これは調べてみる必要がありそうだ。

 

(おわり)