類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

土屋一族の墓(平塚市)【後編】

土屋一族の墓から再び元来た道を戻って、山道を北に進むとやがて住宅地に向かって開けた場所に出た。ここには現在、土屋城址の案内板が立っている。

この丘陵上一帯が土屋一族の住んでいた館の跡付近だと考えられているが、宅地造成等で往時のおもかげはほとんど残っていない。ただ、周囲に残る地名や寺院、伝承や石仏、そして地形からこのあたりを土屋城址と比定している。

IMG_2619.JPG

 

 【ここまで】

pt-watcher.hateblo.jp

pt-watcher.hateblo.jp

案内板【写真クリックで拡大】

IMG_2620.JPG

 

案内板のところから少し進むと、大乗院の裏に出る。

IMG_2629.JPG

 

ここは大乗院の墓域となっていた。

IMG_2630.JPG

 

大乗院の山門

IMG_2633.JPG

 

境内の建物はみな新しくちょうど鐘楼の新築工事をやっていた。

IMG_2636.JPG

 

天台宗の大乗院の創建由来は詳らかではないものの、土屋宗遠が堂宇を再建したと伝えられている。

IMG_2637.JPG

 

案内板【写真クリックで拡大】

IMG_2643.JPG

 

さきほどの城址の案内板にあった「牢坂」の近くにあった「水呑地蔵」というのがどこにあるのか知りたかったが、結局わからなかった。

中世、処刑場があり、処刑者に末期の水を飲ませて供養したという伝承を持つ石のお地蔵さんなのだが・・・

見たかったが、結局わからずじまい。

 

ということで、戻るぞー

 

大乗院の墓地から別の暗い山道を下り、土屋一族の墓の下にあった平場に出る。

IMG_2644.JPG

 

畑になっている。畑の上段、森になっている部分に土屋一族の墓がある。

IMG_2645.JPG

 

ここから坂を下って道路へ。

最後にもう一度、土屋城址を振り返り見る。

IMG_2647.JPG

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

建暦3年(1213)、信濃源氏の泉親衡という人物が亡き前将軍・源頼家の遺子を奉じて北条氏を討つという陰謀が発覚した。これに侍所所司・和田義盛の子と甥の胤長が関与していることがわかった。

 

一族の代表として和田義盛は将軍実朝に許しを乞うた。実朝も義盛は父の代からの重臣であり、許してやりたいと思っていた。

しかし、二人の子は許されたものの、胤長だけは許されず、一族の前で縛り上げられ、陸奥国岩瀬郡流罪となってしまった。

北条義時の策謀によるものであった。

 

せめてもと義盛は、流罪になった胤長の鎌倉の屋敷の拝領を願い出る。罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるのが慣例だった。

 

実朝はそれを許した。

 

しかし、その後、突然、北条義時が胤長の屋敷は、泉親衡の乱の平定に功のあった金窪行親らに与えるとして、屋敷から和田氏の代官を追い出してしまった。

 

度重なる義時の挑発のために面目を失った和田義盛と北条氏の関係は急速に悪化していった。

 

義盛はとうとう決意した。「義時を討つ」と。

 

 

承元3年(1209)5月2日、とうとう和田義盛北条義時討伐のための兵を挙げた。

世に言う「和田合戦」または「和田義盛の乱」である。

 

和田義盛らは大倉御所、北条義時邸、大江広元邸を急襲した。

 

北条義時邸と大江広元邸には防戦する者が残っておらず、たちまち和田勢に攻め込まれ蹂躙された。

大倉御所には火が放たれ、炎上。将軍実朝らは故頼朝を祀る法華堂へ避難する。

 

御所での熾烈な攻防戦は続く。

御所の門を打ち破って乱入して次々と幕府軍の武士たちを切り倒していく義盛の三男・朝比奈義秀の勇猛な戦いぶりは後世まで伝えられることとなった。

 

しかし、そんな和田勢も合戦が長引くと次第に疲れが見え始めた。

 

要因は期待した味方の裏切りであった。

 

和田氏の本家筋にあたる三浦氏は、当主・三浦義村は義盛と起請文まで交わしておきながら、直前で裏切って義時についた。

 

後年、義村が「三浦の犬は友をも食らう」と罵倒されたというエピソードの所以(ゆえん)である。

 

また、期待していた西相模の武士団たちも日和見を決め込み、到着が遅くなった。

 

最初から作戦など成立していなかったも同然であったのだ。

計画の破綻から、すでにこのあたりから和田勢の敗北は濃厚となりつつあった。

 

義盛が結局集めることができた味方は、和田一族。そして、土屋義清と土屋の周囲にいた少数の真田や岡崎、土肥といった一族の武士たちのみであったからだ。

 

次第に幕府軍に押されつつある和田勢。

やがて日は暮れ、疲れ切った和田勢は由比ヶ浜に撤退する。

 

翌日、小雨振る薄暗い中を、腰越から海沿いに駆けつける軍勢があった。

武蔵横山党の横山時兼率いる3000騎である。

 

横山党は和田義盛の妻の実家であった。

 

疲れ切った和田勢はこの頼もしい応援に力を取り戻す。

 

さらに本来、和田勢の味方になるべき、西相模の武士団が続々と鎌倉にやってきた。

彼らは様子見をしに来ただけなのだが、北条義時大江広元からしたら、どっちつかずのその態度がいささか不気味だ。

 

この状況を見て、北条義時は一計を案じた。

実朝にはかり、大江広元連署して近辺の武士に以下のような御教書を出した。

 

「近辺の者たちにこのことを触れ回りなさい。和田義盛、土屋義清、横山時兼らが謀反をたくらみ、将軍実朝を襲ったが大事はない。敵は散り散りになっている。急ぎ反乱を起こした者たちを討て」

 

和田義盛はこうして正式に将軍に対して謀反を起こしたものとなった。

この御教書が近辺の各御家人に伝えられると、御家人たちの大勢は決まった。

将軍実朝が北条方に抑えられている、とあらばわざわざ和田勢に味方する者など、いなかったのである。

 

絶望的な立場に置かれた由比ヶ浜の和田勢は、悲壮な思いで正面の鶴岡八幡宮にいる北条勢に対し、最後の攻撃を再開した。

前面を守る北条義時の嫡男泰時の本陣を攻める和田勢との激戦が繰り広げられた。

しかし、多勢に無勢。

和田勢は次第に消耗していく。

 

この時、土屋義清は一計を案じた。

敵も味方も現在、正面にばかり兵力を集中させている。

この虚を突き、密かに敵陣側面に回り、敵を側撃すれば、膠着していた戦線は打開できるのではないか。

 

土屋義清は密かに手勢とともに、いったん甘縄(長谷)まで撤退し、亀谷(扇ガ谷)から西側の窟堂まで回って、そこから一気に泰時の本陣へ向かって殺到した。

幕府軍の主力として前日から活躍中の足利義氏の軍勢が武蔵大路を守っていたが、土屋勢はこれを蹴散らして猛進する。

 

疾走する義清は何を思っていたのだろうか。

例え泰時の陣を側撃できたとしても、この戦自体、すでに和田氏の勝利は見込めないのに・・・

 

だが、義清の突然の攻撃は幕府軍を慌てさせた。

 

が、泰時の陣まであと少しのところで、突然、横矢が土屋勢にいっせいに射かけられた。

土屋義清の首を一本の矢が貫いた。

馬上から転がり落ちる義清。

 

彼の首を貫いた矢を『吾妻鑑』はこれをシレっと「神鏑」とオーバーに書いている。

 

戦況を少し変えるかもしれなかった土屋勢は、これで全滅した。

 

相模の御家人、土屋次郎義清はこうして果てた。

 

同日、和田一族の命運も尽きた。

関東草創の大功労人とその一族は由比ヶ浜辺に空しくその亡骸をさらした。

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

大乗院から道路に戻り、土屋の城址を名残惜しく見下ろした。

田んぼの向こう側の稜線の森が今見て来た土屋一族の墓や土屋城址の案内板がある場所である。その向こう側に大乗院がある。

IMG_2649.JPG

 

車に戻って土屋を離れた。

昼飯を食べていなかったので、伊勢原まで車を進め、以前来たことがある「麺処サガミ」伊勢原店にて遅い昼食をとる。

IMG_2651.JPG

pt-watcher.hateblo.jp

 

 

最近、こういう和食ファミレスがお気に入り。自宅の近くに「華屋与兵衛」があるが、「サガミ」の方が格段においしく感じる。

IMG_2652.JPG

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

豪華な御膳を食べながら、土屋義清の生涯を思った。

 

彼はなぜわざわざ和田義盛の乱に加担したのであろう。

和田義盛と土屋義清は、同じ三浦氏の傍流出身とは言え、それほど濃い血縁関係があったとは思えない。

 

彼も三浦本家と同様、和田義盛を裏切るか、あるいは他の西相模の武士団たちがしたように、日和見をすれば、その後もずっと土屋を本領に生き続けることができたであろう。

 

だが、『吾妻鑑』を見ると義清は、和田義盛の乱が起こると、その当初の段階から和田勢に一つに数えられているし、前に見た御教書や、和田合戦後の幕府発給文書はこの乱の首謀者を和田義盛、土屋義清、横山時兼としているから、土屋義清は和田一族や横山党以外の主力の一派とみなされているのだ。

 

なぜ、義清は和田勢に加わったのか。

あえて土屋義清が和田義盛に加担した理由を探るとすれば、あの義父の土屋宗遠が梶原家茂を殺害した事件の時、義盛がとりなしたこと以外に思いつかない。

和田義盛に恩義があった。義清はおそらくそれで和田義盛に加担したのだ。

 

彼がどの段階で土屋を出発したのか、あるいはずっと鎌倉にいたのか、史書は明らかにしない。

ただ、開戦当初より不利だった形勢の中で、彼はどこかのタイミングで故郷のこと、本領のあった土屋のことを思い出したであろう。

もう二度と戻ることのない故郷の山々を思い起こしながら、彼は泰時の陣に突入していったのであろうか。

彼が頭の中に思い描いた景色は、800年以上経た今日訪ねた土屋の景色と同じであったのだろうか・・・

 

「和田の乱 行こか戻ろか杜鵑山」(「ふるさと土屋いろはかるた」)

 

 

「行こか鎌倉 戻ろか土屋 思ひみだるる杜鵑山 いまも血になく ほととぎす」

 

 

これは土屋に伝わる古謡であるという。

 

義に生き、義に果てた一人の関東武士の生きた土地には、今はとても静かな時間が、ただ流れているのみであった。

 

(おわり)

 

◆おまけ その1

 

土屋城址の案内板裏に巣を張っていたジョロウグモの交接(交尾)のシーンを目撃した。

なかなか珍しいシーンだと思い写真におさめた。

IMG_2626.JPG

 

ジョロウグモはメスの方がオスより数倍身体が大きいため、カマキリと同じようにオスが不用意にメスに近づくと食べられてしまう危険性がある。

このため、オスはメスが食事中といった隙を狙って交接を行う。

 

この時もちょうどメスが何か獲物を咥えていたところ、オスが上方よりソロリソロリと近づいて、ドッキングしていた。

IMG_2623.JPG

 

新たな命の誕生の瞬間。そして、秋も深まればこのメスもやがて産卵。命を終えていく。

 

お腹がぷっくりしたジョロウグモの黄、灰、黒、赤の鮮やかで綺麗な模様は秋の季語にしてもいいよね。

 

◆おまけ その2

 

平塚から北上してきた県道63号(相模原大磯)と246と交わる伊勢原市板戸の交差点。

IMG_2653.JPG

 

すごいディーラーだらけ・・・古い地図なので今はホンダがなくなってダイハツに。左上のトヨタ店はなくなっていましたが。

 

◆おまけ その3

 

とにかく伊勢原市内、厚木市内は新東名の建設で忙しそうだった。

IMG_2654.JPG

 

今年度中にも伊勢原JCTと厚木南IC間が開通するというが、間に合うのだろうか・・・

 

(おわり)