類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

土屋一族の墓(平塚市)【中編】

平塚市光明寺を出発し、いよいよ土屋氏の本領があった平塚市土屋地区に向かう。土屋は平塚といってもかなり内陸で、地理的にはほとんど秦野に近い。神奈川大学の湘南ひらつかキャンパスが所在しているものの、周囲はなだらかな丘陵が広がり、自然が豊かである。大半は住宅地ではあるものの、農地もかなり残っている。

車を平塚市土屋公民館に止めさせてもらい、散策をスタートする。

途中にあった土屋ざる菊園には、なぜかハリウッド風の看板が…

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 【ここまで】

pt-watcher.hateblo.jp

 

よく見ると「HOLLYWOOD(ハリウッド)」ならぬ「HOLYWOOD」

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調べてみると近くにある神奈川大学の学生が作ったらしい。「L」を一つ抜いて、「HOLYWOOD」。「聖なる森」の意味らしい。パロディということか。

これを面白いと思ったのであろうか?いずれにしてもかなりの謎演出。

 

一応、案内板があり、その道順に沿って田んぼと田んぼ間を進むと、こんな山道に入っていく。

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「通学路」とか看板に書いてあるけど、こんな通学路、怖すぎる。

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人通りは少ないようで、油断していると上空に張られた巨大ジョロウグモの巣にかかりそうになる。

 

山道はやぶ蚊もものすごい。

そんな自然の猛威にさらされながら山道を登っていくと、やがて句碑と看板のある場所に到着。

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ここから写真正面に見える平場に下りていく途中に土屋一族の墓がある。

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五輪塔がずらりと並ぶ。

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墓域は土屋一族の墓と伝えられるものであるが、当然往時のものではない。

後世、どこかから集められ、ここに並べられたものであろう。

 

解説板【写真クリックで拡大】

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なお、この地には皇太子さまが行啓されたことがあり、それを記念した石碑が墓塔に混じり立っていた。

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ここでしばし、土屋義清に思いをはせた。

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

土屋義清は、鎌倉時代初期の武将で、岡崎義実(おかざきよしざね)の子である。岡崎義実三浦義明の弟だ。

三浦義明と言えば、衣笠城での壮絶な最期が有名だ。

源頼朝が挙兵した際、義明は頼朝に合流しようとしたが、酒匂川の増水により、頼朝のもとに辿り着けなかった。その間に頼朝らは石橋山の戦いで平家方の軍勢に敗れてしまい、房総へ脱出する。三浦義明は、本拠地の衣笠城に籠城し、まだ平家方だった畠山重忠の軍勢と戦う。最終的に義明は子どもらを頼朝らが向かった房総半島へ逃がして、自らはそのまま一人城に残り、頼朝による源氏再興を願いながら戦死した。

 

鎌倉幕府が確立した後、頼朝は義明のこの最期を思って涙し、建久8年(1197)の義明の17回忌に臨んで「今日まで義明は生きていたものとする」とした。89歳で戦死した義明に17年を足して、義明は106歳で死んだものとしたのだ。鶴は千年、亀は万年、三浦大介(みうらのおおすけ)百六つ」という囃(はや)し歌の所以(ゆえん)である。

 

そんな義明の弟である義実は、相模国大住郡岡崎の地(現在の平塚市岡崎と伊勢原市岡崎)に本領を得たため、岡崎を名乗った。

 

義明も義実も、義朝の頃からの源氏の家人である。頼朝にとってみれば、父の代からの譜代の家人であり、頼朝の挙兵に早くから同調した関東では古参の御家人である。

 

ただ、老齢なこともあり、義実自身はその後の源平合戦には従軍していないものとみられ、鎌倉に宿老として頼朝の政治を助けたのであろう。彼の代わりには他の三浦一族や、そして土屋義清らの子どもらが活躍した。

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

しかし、当地は蚊がひどく、おちおちカメラも構えることも許されなかった。

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ひとしきり写真を撮り終えると、元来た道へ戻ることにした。

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◇ ◆ ◇ ◆

 

土屋義清は、同じ相模の御家人で中村(現在の小田原市中村)を本領とする中村荘司宗平の三男で土屋を領していた土屋宗遠に養子に入る。相模・・・に限らず、武士団はこうした縁組によって、血縁的なつながりを有する場合が多かった。

 

三浦氏と中村党がつながった。これは後々、大きな意味を持つようで、あるいは持たなかったようで・・・

 

源平合戦後の土屋義清には、目立った活躍は見られない。ただ、この間、承元3年(1209)5月28日、土屋一族を揺るがす大事件が起きている。

 

義父宗遠が鎌倉の和賀江島付近で梶原景時の孫である梶原家茂を、かねてからの怨恨により刺し殺したのだ。宗遠はただちに御所に出頭、侍所の別当で同じ三浦一族の和田義盛にその身は預けられた。

 

宗遠が家茂に対して抱いていた恨みというのはよくわからない。

 

ただ、宗遠は当時の将軍源実朝に「私はあなたのお父様(頼朝)の時から仕えており、(それと比べ、殺された)梶原家茂は謀反人梶原景時の孫。私の忠義と彼の不忠は比べようもないはず。武具も差し出したのに、どうしてこんな(拘禁)扱いを受けなければいけないのか」と訴えている。

 

実朝からしてみれば、いくら父の譜代の家人とは言え、「あんたのお父さんの頃から俺は一生懸命仕えて来たんだよ。どうしてこんな扱いを受けるんだい。許すのが普通だろ」と言われれば納得はできない。

 

・・・が、結局、実朝は宗遠を許した。

和田義盛がとりなしたのである。

もっとも故頼朝の月命日にあたっていたから、というのもあったのだが。

 

とにかくも和田義盛のおかげで宗遠は許された。

この事件が土屋義清の運命を大きく変えることになるのだ。

 

(つづく)