類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

甲斐善光寺(甲府市)

日本における信仰は固有の宗教(仏教、神道修験道などなど・・・)に対する信仰や、その中の仏なり神なりへの崇拝を超越して、個別の寺社に対する信仰も各地で見られる。ここまで来ると宗教体系の一部というより、もはや民間信仰といった方が説明しやすいとは思うのだが、その代表例が善光寺ではないだろうか。

善光寺と言えば長野にある古寺で、倭に仏教が伝来した最初期に到来した仏像を安置したところから始まるという。

その善光寺の分院たる寺院が各地にある。それこそ一国中の崇拝を受ける大きいものから、地域の信仰に基づいた小さいものまで・・・

その善光寺シリーズの一つとして、今回は去年の秋に甲府市にある甲斐善光寺を紹介したい。

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山梨市の青白寺から一路西進。

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延伸工事が続く西関東道路に乗り、甲府市へ。

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山梨県道6号、甲府市横根町付近。中央本線を渡る「第四青梅街道踏切」。

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あれ、中央本線ってこんな電車だったっけ?

あまり山梨方面の中央本線に注視していないのでわからなかったが、いつの間にか投入された信濃色の211系が通過していった。

そんなこんなで甲府市甲斐善光寺の門前へ。

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甲府は全国の県庁所在地のなかでもっとも人口が少ないが、コンパクトな上、武田信玄を出した戦国大名武田氏の本拠地という歴史性、山々に囲まれたロケーション、近世の宿場地としての景観などによって、とても魅力ある町である。

そして、甲府甲府盆地の真ん中である。

周辺では果樹栽培などが盛んだ。

東京から中央道で長野へ向うと、勝沼あたりからの下り坂で見下ろす甲府盆地は圧巻だ。

特に夜景の美しさは、格別である。

とは言え、甲府の町をゆっくり歩いたのは、もう何年も前・・・学生時代の頃。

また、甲府の町をゆっくり散策してみたいものだ。

そんな甲府は戦国時代の城下町、近世の宿場町だけではなく、甲斐善光寺門前町という側面も持つ。

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まず、迎えるはこの大門。

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江戸時代の寛政期に再建の巨大な山門である。

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甲斐善光寺と言うけれども、正式には善光寺

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ただし、本家の長野の善光寺と区別するため、甲斐善光寺だの、甲州善光寺だの、甲府善光寺だの言うのである。

甲斐善光寺は、もともと武田信玄がライバル「越後の龍」こと上杉謙信と、川中島の戦いを繰り広げていた頃に、信玄が長野から持ち帰った善光寺如来阿弥陀三尊像)を甲府に安置したことから始まる。

塩山の向嶽寺に残された年代記である『塩山向嶽庵小年代記』には、それは永禄元年(1558)9月のことであったとされている。

織田信長甲州征伐で、武田氏が滅亡すると、善光寺如来は信長の嫡男・信忠によって岐阜に移され、織田氏が滅亡した後は、清州、浜松と転々とし、家康によって再び甲府へ戻ってきた。

秀吉の時代に京都へ行き、慶長3年(1598)に信濃の長野へ戻っている。

時の権力者のもとを転々とする善光寺如来

権力者はなぜ善光寺如来を自分の城下に置こうとするのか。

その背後には、民衆による強力な善光寺信仰を利用しようとする権力者の意図が透けて見える気がしてならない。

そんな善光寺信仰の不思議なのだが、もう一つ気になっているのは・・・

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伽藍の形成である。

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この本堂の造りは、本家・長野の善光寺とほとんど同じである。

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善光寺式」とか「善光寺造り」とでも言えようか。撞木造(しゅもくづくり)というこの形態は、全国の善光寺に限らず、長野県内の寺社で割合多く見られる形態だ。

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善光寺の影響が建築面でも大きいことが窺われる。

もともとの永禄8年(1565)の本堂は、江戸時代の火災で焼失した。

明和3年(1766)より寛政8年(1796)まであしかけ30年に渡る再建工事でできたのが現在の本堂である。国の重要文化財である。

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永禄建立の当初の本堂こそ善光寺と同じ規模であったと言われるが、寛政期再建の本堂はそれよりやや小ぶりであるという。

しかし、それでも巨大な建築であることに変わりはない。

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本家・長野の善光寺は江戸初期の寛永期の建立なので、それよりは新しいが、いずれにせよ、近世の優れた大型建造物である。

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今でも老若男女、善男善女、参拝客が絶えない。

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鬼瓦。そして切妻屋根の彫刻が手が込んでいる。

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重機やクレーンもない江戸期にこれだけの建造物をどうやって建てたのであろうか・・・

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古建築を見ると、いつもそんなことを考えてしまう。

◆おまけ

帰りの中央道。渋滞に巻き込まれたくなくて早めに勝沼IC(※一宮御坂ICで乗り損ねた)から中央道へ乗ったが、結局渋滞。

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案の定、上野原での車線減少による合流渋滞であった。

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この先の都県境の小仏トンネルでも少し詰まっていた。まぁ、中央道では相模原付近で3時間渋滞で待ったこともあるから、まだいい方かな。

(終わり)