昨年の「村に行きたい、上野村」のリベンジとして、夏が来たので上野村へまた出かけることにしました(リベンジ!村に行きたい、上野村。)。しかし、その計画をいろいろ練っていると、埼玉県秩父地方の長瀞(ながとろ)に非常に大きい板碑(いたび)があると知って、行ってみることにしました。
いつものように299号へ。
まもなく吾野。
この先にある吾野トンネル。新しいなぁと思っていたら、去年開通したばかりだった模様。 参考:吾野(あがの)トンネル(国道299号)が開通します!(埼玉県政ニュース) 正丸峠は、正丸トンネルで越えます。
順調に道の駅「ちちぶ」へ到着。
ここの駐車場は割とすぐにいっぱいになる。奥の秩父太平洋セメントの工場跡地に第2駐車場があるが、そこは砂利敷きである。 今回は朝だったので、駐車場はガラガラだった。 「ちちぶの水」 暑かったので手を洗ったら、気持ちよかった。
・・・を撮ったつもりが、手前にあるショッピングセンターの看板がどうも目立つ写真になってしまった。 ぶらり秩父散策。
秩父鉄道秩父駅前。池袋からの特急が来る西武鉄道の西武秩父駅とは違う駅なので注意が必要。
この駅に隣接する秩父地場産センター物産館で珍しくお酒をいっぱい買った。 秩父は結構頻繁に来ているが、のんびりしていていい街だね。 暑くなければもっとゆっくり歩いてみたい。
そこから再び140号に戻って、長瀞へ。 長瀞町にある野上(のがみ)下郷(しもごう)の石塔婆。
目的のものは、140号の脇道をすぐ入ったところにある。 国道に大きな看板で案内が出ているわりには駐車場はない。 よって車は路上駐車。 えらく邪魔なところに止めてしまったが、脇道にはほとんど車通りはない。 車を降りて辿りついたのは・・・
こんな感じの小高い丘にある。
国の指定史跡で「野上下郷石塔婆」で登録されているが・・・
実際には巨大な板碑(いたび)である。
板碑とは、石でできた供養塔の一種なのだが、薄く細長い板のような形をしている。 このデザインは木の卒塔婆でも模したのだろうか? 板碑は中世期に盛んに作られたようで、特に埼玉県は板碑の材料となる良質な石が豊富にとれたと見えて、「武蔵型板碑」の生産地と推定される場所があったりと、板碑が多い県だ。 5万基の武蔵型板碑の製作地 小川町の遺跡が国指定史跡に指定の答申(彩の国ニュース) しかし、たいていの板碑はそんなに大きくない。 参考にこれは鎌倉市材木座、五所神社の板碑。
かつて取材した埼玉県ときがわ町慈光寺の板碑でも2.5mくらい。(秩父地方に行ってきた1(慈光寺の歴史と信仰))
なのにこの板碑は、高さが5.3mもある。
解説板を読む。
国指定史跡 野上下郷石塔婆
秩父郡長瀞町野上下郷三九
昭和三年二月七日付け指定
高さ約五㍍・幅約一㍍・厚さ一三㌢のこの塔婆は、現存する板石塔婆としては、日本一の大きさである。
釈迦の種子に梵字の光明真言、「願以此功徳云々」の法華経化城喩品(けじょうゆぼん)の偈(けい)文を刻し、
権少僧都大檀那道観
比丘尼妙円 行阿
応安二年〔己酉〕十月 日〔敬白〕
正家
正吉
結衆 三十五人
道観
の造立紀年銘と連名がある。
この塔婆は、当町大字小坂字城山に所在する「仲山城」の城主阿仁和直家が落城の際、討死して、十三回忌の応安二年(一三六九)十月に、夫人の芳野御前(妙円尼)が追善供養のため建立したものである。
昭和五十年三月三日
文化庁
埼玉県教育委員会
長瀞町教育委員会
ここにある通り、この野上下郷の大板碑は、現存する板碑の中では日本最大と言われている。 板碑は多くの場合、種子(しゅじ)と呼ばれる梵字が彫ってある。
種子とは仏の名前を表す呪文を梵字のことだが、板碑の中央にはたいてい大きくその主尊たる種子が刻まれる。 野上下郷の板碑は、釈迦如来の種子である「バク」が刻まれており、その下に蓮華座が描かれている。 つまりこれ一字で釈迦如来を表しているのだ。 蓮華は描いているのだから、仏像も描けばいいのに、わざわざ種子を刻むのは、おそらく種子自体に特別な意味があるのだろう。 種子の下には、これまた梵字。光明真言といって、これまた呪文が刻まれている。
その下には偈文(げぶん、仏さまや菩薩の教えをたたえる詩文のこと)と紀年銘、願主等の名前が彫られている。
風化による摩耗がほとんどなく、この画像を拡大すると、偈文も紀年銘も願主名もすべて読みとれる。 これはすごい。 こう書いてある(翻刻は面倒なので、案内板より引き写し)
(偈文) 願以此功徳
普及於一切
我等与衆生
皆共成佛道
ここは偈文なので、何やらありがたいことが書いてありそう。
権少僧都大檀那道観
比丘尼妙円 行阿
応安二年〔己酉〕十月 日〔敬白〕
正家
正吉
結衆 三十五人
道観
ここにいる人たちがすごい気になる。 願主の奥様はともかくとして、他の人たちは何者? 親戚?家来? そして「結衆 三十五人」とは? ここに書いてある意味を、ちゃんと読み解けば面白いんだろうな・・・ 中世人たちが、どうやって死者を弔っていたのか・・・ 近親者にとって故人に対する思いというものは、今も昔も変わらないはず。 この銘文を読み解けば、その様子がありありと想像できそう。 この銘文の意味を読み解くために、ちょっと図書館に行って、勉強したいですね。 応安2年は、西暦だと1369年で南北朝期だが、そろそろ南朝の勢いも衰え始めた頃。 都では室町幕府の3代将軍、足利義満が将軍になってまもなくの時期だが、この頃の関東はまだ戦乱続きだったのでしょうか。 とにかくサイズがデカいから、細部までマジマジと見学することができました。
しかし、中世の遥か昔からずっとここに立ち続けている板碑。 その君臨っぷりは、サイズだけではなさそうで、醸し出す歴史の流れが見る者を圧倒させるのでしょう。 そんな余韻に浸っていたら、近くの踏切の音が鳴って秩父鉄道の電車が通過。
昔、東急で走っていた電車でしょうね。 神奈川か、東京に住んでいた頃、乗ったかもしれないあの車両。 遥か時と場所を移して、埼玉で再会とは。
(おわり)