類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

信州伊那・仲仙寺1

11月は連休がたくさんあっていい感じです。ハッピーマンデーに反対する人たちは、「休み過ぎだ!ハッピーマンデーなんて廃止しろ!」とか言いますし、祝日は日付けに意味があるのだから、本来の日付に戻すべき、と言う人も少なからずいます。

確かにそれはそうなんだけど・・・でも、それはちゃんと週休二日休めている人たちだからそう感じるだけ。私のように普段は週休1日、日曜日しか休みのない人にとっては、連休はどんな理屈でもありがたい。そして、逆に少ない連休だからこそ、有効に使おうと思うのです。

というわけで、11月の2回の連休は、どちらも遠出してきました。今回の記事の2回目の連休は、長野へ一人で行きました。

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今回は特にどこに行くとも明確な目的は決めていなかったのですが、とりあえず伊那に行こうと思いました。

大好きな長野の中でも伊那は未開拓で、あまり行ったことがなかったのです。

連日の仕事のストレスもあり、とりあえず温泉にでも入ろうと、伊那市にある「みはらしファーム」に隣接する「みはらしの湯」で、昼間から温泉に入り、いい気分に。

人気なのか、連休ということも相まって、結構盛況でした。お薦めです。「みはらしの湯」

・・・で、お風呂に入った後に、すぐ近くに仲仙寺というお寺があることを知りました。

このお寺、前から気になっていたので、よって見ることに。

「みはらしの湯」から、車で5分くらいだったでしょうか?

着いた仲仙寺の周辺は、山に囲まれた静かな集落でした。

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駐車場があるかどうかわからないけど、とりあえず行ってみたらありました。

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車を止めるべし。

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駐車場には数台の車が止まっていましたので、参拝客が他にもいるのかな?と思いきや、境内には参拝客の姿はなし。長野県以外のナンバーばかりだったのですが、どうもこのお寺から登山道が伸びているらしく、駐車場の車は登山客のものと推測されます。

駐車場から少し戻ると、不思議な門がありました。

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木と木の間に板が渡され、なんか鳥居ともしめ縄とも違う、不思議な感じの門になっています。

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中央にはお札が。神仏習合的な何かを感じたのですが、よくわからず。

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参道を歩くと・・・

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今度は石碑群あり。

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その中の一つ。

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なんて書いてあるのかわかりませんが、「虫」という字と、「玉」という字から推測するに、どうもこれは養蚕に関する碑ではないかと思います。

特に明治・大正期の日本の近代工業を支えた製紙業。

長野県は群馬県などと並び養蚕や製糸が盛んだった県です。特に伊那に隣接する諏訪地域は、岡谷に代表される製糸業で栄えた町。

世界遺産になった富岡製糸場を守ってきた片倉工業も、もとは岡谷の会社。

養蚕や製糸の重要性は、長野の県歌に「細きよすがも軽からぬ」、「国の命をつなぐなり」と歌われたほど。

そんなかつての養蚕王国・長野のいったんがこんなところからも偲ばれます。

蚕の無事な成長を願ったのでしょうかね。

他にお地蔵さんもあり。

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今度はちゃんとした門がありました。

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1対の仁王像が納められていました。

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解説板。【クリックで拡大】

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仁王さんは、正式には金剛力士といいますが、「那羅延堅固王(えんならこんごう)」と「密迹金剛力士(みっしゃこんごうりきし)」という別名があります。仏さんは単体では毘沙門天だが、四天王というグループに入ると、多聞天という名前になったりと、いろんな名前を持っている場合があります。

この那羅延堅固王密迹金剛力士も、観音菩薩の眷属として祀られる場合に、この名前で呼ばれます。あまり一般的ではありませんが。

参道途中には伊那市考古資料館が。閉館中でした。見学するには事前に連絡しておく必要があるみたいです。

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さらに進むと十王堂がありました。

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内部には木造の閻魔大王と石造の十王像、そして6体の地蔵菩薩が安置されていました。

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人は死ぬと、あの世で裁きを受け、悪行が深ければ地獄へ落とされる・・・

その時、裁判を担当する神が十王です。

それぞれ人が死んで7日目、つまり初七日(しょなのか)に担当するのが、秦広王(しんこうおう)。

2週間後、つまり二七日(ふたなのか)に担当するのが、初江王(しょうこうおう)といったように、担当する裁判官が決まっています。

初七日や二七日に法事を行って故人を供養するのは、遺族がお経をあげることで、この裁判で故人の罪を赦してもらうことができると信じられたからです。

ちなみに、この十王の中で5番目に担当するのが、有名な「えんま様」こと「閻魔王」です。

なぜか、この閻魔は、十王の中尊的な扱いを受けることが非常に多く、たいていの十王の彫刻や絵画で閻魔は十王の中心的存在になっています。

しかし、この十王思想は、もともと仏教由来のものではなく、かなり中国や日本の民間信仰が織り交ざった考え方です。十王のことが書かれたお経も、中国や日本で作られたものなのです。

特に中国の道教儒教の影響が色濃く、そこに日本で末法思想とともに形成されていった地獄への恐怖が、日本での十王信仰を作り上げていったのでしょう。

ただ、これは裏返せば、日本で普遍的な地蔵菩薩への信仰の一つなのです。

このお堂にも閻魔さまと後ろに6体のお地蔵さんがいらっしゃる。

なにそろ閻魔さまは、お地蔵さまの化身なのです・・・

そんでもって、いろいろ複雑な十王信仰。

しかし、現在でも悲惨な事件や怒りを覚える出来事を耳にするたび、そういった事件の犯人たちはいったいどんな地獄に堕ちるのだろうと思います。

でも、それ以上に自分はどんな地獄に堕ちるのだろう、とも思います。

極楽へ行けないのはもちろんのこと、地獄へ行く心当たりのあることはたくさんありすぎます。

閻魔さまたちもすべてを審理できないくらいに。

・・・というのは、きっと誰でもそうなんでしょう。今でも各地に十王の仏画や彫刻が祀られているのは、みんな心あたりがあったからなんでしょう。そして、一生懸命に地獄へ行った時のよしなにを頼んだのでしょうか。

(つづく)