類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

愛知県に行ってきた3(長篠城址)

コノハズクへの想いを果たした後、私たちは車に乗り込み、次の目的地である長篠城址へ向かい南下を始めました。国道151号線(伊那街道)をひたすら南へ進みます。ちなみにこの時点でお昼近かったわけですが、昼食をとる時間がもったいないこともあり、空腹に耐えながらの強行軍です。やがて飯田線の線路が向かって右から左に移り、里におりてきました。このあたりが旧鳳来町の中心部にあたる長篠(ながしの)です。 IMG_7733.JPG

 

そして、着いたのが長篠城址。 天正3年(1575)、武田勝頼武田信玄の後継者)と織田信長徳川家康の連合軍がここで激突した歴史に名高い長篠の戦いの古戦場です。 IMG_7732.JPG

長篠の戦いは、簡単に説明するとだいたい次のようになります。 元亀3年(1572)、信長とけんかした室町幕府将軍足利義昭は、信長追討令を出し、それに応える形で武田信玄がいわゆる「西上作戦」を開始します。 信濃から三河に侵攻した信玄は、三方ヶ原の戦い徳川家康を撃破しますが、翌年信玄は病死してしまいます。

 

信玄という強大な武将の死は家康にとっても、信長にとっても有利な方向へ進み、家康は三河遠江の支配を固め、信長は畿内で浅井や朝倉をやっつけ、着々と彼の「天下」を形成していきます。 さてさて、そんな頃、ここ奥三河に奥平貞昌という国人(地侍のこと。独立的な在地領主)がいました。 彼はもともと武田に属していたのですが、天正元年(1573)に徳川方に寝返ります。 まあ、この奥平氏はもとは徳川方だったのですが、一度武田方に属し、また戻ってきたわけです。 コロコロ態度を変える人のように思われるかもしれませんが、大名領国の国境沿いの国人領主は奥平氏に限らず往々にしてこういった行動をとるようです。 まあ、しょっちゅう戦乱があり、立場が不安定ですから当然と言えば当然ですね。 ほんでもって奥平氏は、武田氏との対峙の最前線となる長篠城へ配備されます。 一方、信玄の跡を継いだ武田勝頼は大激怒。 奥平貞昌が武田氏に指し出していた人質(弟と子どもたち)を殺害し、天正3年(1575)には長篠城の攻略に取り掛かるのです。 取り囲まれた長篠城は、そこから信長・家康連合軍が応援に到着するまで長い籠城戦に突入するわけです。 それから始まるのが長篠の戦い

 

結果を先に言うと、長篠城は結局、信長・家康連合軍の到着まで持ちこたえ、信長・家康の連合軍が足軽鉄砲隊の活躍で武田軍を撃破し、武田家はここで大きな損害を追って本国へ撤退を余儀なくされてしまいます・・・ ただ、以上の説明は概略で、実際には開戦に至るものすごい長い経緯がありますが、それは今回省略。 なぜなら戦国時代は、大名たちが同盟とその破棄を繰り返し、目まぐるしく敵味方関係が変わっていくので、非常に難解なのです。 また、長篠の戦いと一般には言いますが、有名な足軽鉄砲隊が活躍した主戦場は長篠城の周辺ではなく、もう少し離れた設楽原(したらがはら)です。 その長篠城は今は影も形もありませんが、その跡地には現在、新城市長篠城史跡保存館という資料館が建てられています。

 

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では、さっそく入ってみます。 IMG_7730.JPG

 

こじんまりとした資料館でしたが、なかなか面白かったです。 ただ、時間が押していてあまりじっくり見られなかったのが残念。 ちなみにここではこの後に行く設楽原の資料館との共通券が買えます。 長篠の資料館と設楽原の資料館両方見ることができ、400円でお得です。 というわけで、信長・家康連合軍の鉄砲隊の活躍はまた別に譲るとして、今回は・・・

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このおっちゃんに注目してみたいと思います。【クリックで拡大】 IMG_7741.JPG

 

この磔になってるおっちゃんは鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)と言います。 長篠城に籠城した奥平勢の兵の一人なのですが、彼にはこんな有名な物語があります。 お話は、武田軍に包囲され、長篠城にどんどん落城の危機が迫るところから始まります・・・


鳥居強右衛門の勇気」

 武田軍1万5000人の包囲攻撃に対し、長篠城の奥平勢は500人程度しかいなかったが、鉄砲を武器に城主の奥平貞昌以下、よく攻撃に耐え、城はなかなか落ちなかった。

 しかし、5月13日には食料庫が攻撃によって焼失するなど、次第に劣勢に立たされた。貞昌はこのため徳川の援軍を要請することを決めたが、武田の厚い包囲攻撃下では、それも叶わないものとみられた。

 この時、一人の雑兵が德川方へ援軍を要請する使者に名乗りをあげた。鳥居強右衛門である。武田の厚い包囲のなか、岡崎城の家康のもとへ行くのは困難を極めることであった。しかし、強右衛門の意志は強かった。

 こうして強右衛門は再び帰ることのない決死の使者として、長篠城を出たのであった。天正3年(1575)5月14日の夜のことであった。

 強右衛門は城の下水口から泳いで城中を抜け出し、約65km離れた岡崎城に一昼夜走り向かった。強右衛門は15日のうち、岡崎城へ到着した。すると、岡崎城にはすでに岐阜城から援軍を率いて駆け付けた織田信長と家康の連合軍3万8000人が到着しており、翌日にも長篠に向かう手はずになっていた。これに強右衛門は喜び、家康に謁見すると、すぐに長篠城へ戻るのであった。

 16日の早朝、強右衛門は長篠城を見渡せる雁峰山(がんぼうざん)から合図の烽火をあげると、再び城中へ戻ることをはかった。しかし、今度は武田軍に捕まってしまう。取り調べを受けた強右衛門は、あっさりとすべてを白状してしまう。

 これを知った勝頼は慌てた。こうなれば信長・家康連合軍が到着する前に、長篠城を落とさなければならぬ。そこで勝頼、強右衛門にある提案を持ちかけた。それは次のようなものであった。

「もし、強右衛門が長篠の城中に向かって、『援軍は来ぬから降伏せよ』と言って説得したならば、お前を召し抱え、領地を与えよう」

強右衛門は何とこの勝頼の提案を飲むのである。

 さてさて、城の前に引きたてられた強右衛門。
城中に向かって

「我は鳥居強右衛門。皆の衆、今帰ったぞ」

と叫んだまではよかった。

ところが次の瞬間、強右衛門は勝頼との約束を破ってこういった。

「皆の衆、安心せい。すでに織田・徳川の3万の援軍が岡崎にいる。あと2、3日の辛抱じゃ」

と大声で叫んだのである。

「おのれ、騙しおったな!」

勝頼は怒り、その場で強右衛門を磔にして殺害してしまった。

 しかし、城中のものはこの強右衛門の勇気にますます士気をあげ、結局、長篠城は信長・家康の連合軍が到着するまで持ちこたえたのである。

 死を賭けた強右衛門の勇気は、後々まで語り継がれ、忠義の鑑とされた。敵方の武田勢の中にさえ、強右衛門の姿に感銘を受け、その最期の姿を旗にするものまであった。

 

鳥居強右衛門は、今や地元では今はやりの「ゆるキャラ」になっているという噂でしたが、なんかそれらしきものは見当たりませんでした。 そんな長篠城址は国の史跡になっています。 現在、資料館の裏にはいくつかその遺構を見ることが出来ます。

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まわりにはこんな感じの旗がなびき、雰囲気が出ています。テンションも上がってきました。

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馬防柵の再現がなぜかちょっとだけありました。 馬防柵と設楽が原の戦いについてはまた次回。

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資料館の裏をみると、飯田線の線路が見えました。 IMG_7737.JPG

 

こんな間近を走っていたとは驚き。 そして、その後方には・・・ IMG_7735.JPG

 

新東名の高架橋を作っていました。来年には三ヶ日JCTから新城、岡崎を経て豊田東JCTまでつながる予定です。新城にもインターチェンジができる予定です。 IMG_7736.JPG

 

そう言えば、資料館の中に「新東名のトンネル掘削の発破作業のため、振動があるかもしれません」的なことが書かれていました。 長篠城址から建設中の新東名を眺めるというのは、なかなか不思議な気分でした。

(つづく)