類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

伊豆山神社に行ってきた

石橋山の続きです。

石橋山をあとにした私たちは、国道135号線に戻り、熱海を目指しました。

次の目的地は、熱海市伊豆山神社です。国道135号線に「伊豆山」という交差点があり、そこを右折して、山の方へ行くとあります。熱海というところは、その地名が示す通り、温泉地ですが、この伊豆山もそれに由来する神社なようです。伊豆山神社という名称は、明治になってからのもので、古くは伊豆山権現走湯権現(そうとうごんげん)と呼ばれていました。

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駐車場は下(鳥居の横)と上(境内内)にそれぞれあります。

足腰丈夫な人は、下の駐車場に止めて、正面から登っていきたいものです。階段がしんどい人は、上の駐車場まで乗り入れてしまうのがいいでしょう。

何しろこの階段は900段あるということです。

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中ほどの鳥居につきました。

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伊豆山神社」とあります。

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結構上がるので・・・

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境内からの見晴らしはこの通りです。

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意外と熱海の市街地の間近です。右手の山の下を東海道線と新幹線が通っており、その向こう側に熱海駅があります。

ほんでもって社殿。

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わりと質素な感じです。

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伊豆山は、「関八州総鎮護」の神社として知られています。

「関東総鎮護」を名乗る大山阿夫利神社と似ていますね・・・

ただ伊豆山がそう呼ばれるのは、源頼朝の崇敬が深かったからでしょう。

そのつながりは頼朝が伊豆に流されていた頃からのものです。

頼朝は挙兵直前に伊豆山のお坊さんに相談したり、源平合戦がはじまると妻の政子を伊豆山に預けたり、いろいろ伊豆山にはお世話になっているのです。

そんでもって、頼朝以後、幕府は伊豆山と箱根神社三島神社をとても敬い、この3社が関東を鎮護する神と認識されていったようです。

* * * *

そんな伊豆山神社ですが、いまは「頼朝と政子の逢瀬の場所」ということにして、「恋愛の神様」「パワースポット」と認識されているようです。

北条政子が土地の目代(代官のこと)である山木兼隆(平家方)と結婚させられそうになったものの、大雨の降る夜、屋敷から抜け出して、伊豆山の頼朝のもとに駆け付けて結ばれた話は、確か『源平盛衰記』かなんかに書いてあり、また関係するであろう類話が『吾妻鏡』に登場するのですが、いろいろ検証してみると、これはたぶん事実ではないと思われます。

それはそうとしても、そんな頼朝と政子のエピソードによるものなのか、なんか境内には女性の姿が多く見られました。

女性というのは、意外にもこういうのが好きなんですね。

神社好きの女性というのは、確かにいますが、そういう人はコアな人なだけだと思っていました。

いまや神社ブームは、結構多くの一般人にも浸透しているようです。

* * * *

まあ、それはそうとしても、今回の私たちの目的はこれです。

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これは授与所で出している牛玉宝印(ごおうほういん)。1000円です。

牛玉宝印(ごおうほういん)というのは、簡単に言うとお札の一種です。

本来は「牛玉宝印」とか「・・・宝印」と書いてある真ん中に、朱印を押したものですが、「牛玉宝印」という文字を図案化したものが多く、ちょっとこんなおどろおどろしい感じがします。

もともと正月のお寺や神社の行事ですり出された厄除けのお札で、家の戸口に貼ったり、木の枝に挟んで水田に突き刺したりして、魔除けや除災を祈るものでした。

もっとも、こうした機能はいまでもあり、現在も多くのお寺や神社で正月限定で、牛玉宝印を発行するところは東大寺をはじめいっぱいあります。

しかし、それだけなら、普通のお札な牛玉宝印ですが、よく知られた特徴があります。

それは中世以来、起請文(きしょうもん)を書く紙に、なぜかこのお札が用いられたのです。

起請文というのは、誓約書のことで、簡単に言うと「・・・を約束します。これを・・・の仏様・神様に誓います。もし、これを破ったら、・・・の仏様・神様の罰を受けて、現世は病気で苦しんで、死後は地獄に落ちます」と言った感じのものです。

つまり、約束事を相手に信用してもらうために神仏に誓うのです。

起請文は中世以来、幕末までやたらいろんなことに使われました。

内容は年貢の請負をちゃんとやります、といったことから、親子の義絶に関するもの、裁判を公平に行います、引き受けた役職をちゃんとやります、あなたに従います。絶対に裏切りません、といったものなど、実に多様です。

本当にいっぱいあり、中世・近世文書の中では結構ポピュラーな存在です。

でも、一番有名なのは戦国大名の同盟の際に用いられたもので、軍事同盟の締結などに起請文が書かれています。

その戦国大名織豊政権の大名たちの時代になると、血判起請文というものがあって、自分の花押(サイン)の上に血をたらしてみたりするわけです。

実物の写真なんかをみると、とてもおどろおどろしい感じのする文書です。

その起請文をこの牛玉宝印の裏に書くのです。

一番多く用いられたのは、熊野三山(現熊野那智大社本宮大社、熊野速玉大社)が出した牛玉宝印で、これは「熊野午玉符(ごおうふ)」とか「熊野誓紙(せいし)」と呼ばれています。

これはカラスを図案化したもので、おどろおどろしさは、これが一番でしょうか。

私はこれも手に入れたいのですが。

伊豆山の牛玉宝印は大きかったです。

その上に厚紙で、なんかちょっとイメージしてたのと違いました。

走湯山宝印」と書いてあるとのことです。

プリントっぽいですが、版木は昔からあったものでしょう。

ちょっとイメージと違いましたが、大事に買って帰り、次の目的地を目指すのでした。

しとどの窟編へつづく)