類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

石橋山古戦場(佐奈田霊社)に行ってきた

今からだいたい800年くらい前。相模の鎌倉に本拠地を置いて、日本で最初の本格的武家政権(つまり幕府)を開いた源頼朝。頼朝とそれ以降の鎌倉の政権は、鎌倉幕府と呼ばれますが、その鎌倉幕府はいつできたか知っていますか?

多くの人は「イイクニ作ろう」だから、「1192年!」と自信たっぷりに答えますが、残念ながら今日学界では、ほとんど認められていません。というか、昨今では高校の教科書にすら、1192年が幕府の成立とは書いていません。

では、いつ鎌倉幕府はできたのでしょうか?

今回はそんなお話。

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なぜ1192年ではいけないか。

というのは、1192年というのは、正確には頼朝が征夷大将軍になった年なのです。

この頼朝を先例として幕府の親分は、室町幕府江戸幕府も将軍なのだから、頼朝が将軍になった年が幕府の成立と考えてもよさそうですが、詳細に見ていくとそうでもないのです。

頼朝が平家に歯向かって挙兵し、いろいろありながらも鎌倉に入ったのが1180年のこと。

平家を倒したのが1185年のこと。

奥州藤原氏を倒したのが1189年のこと。

さらに、この間に頼朝は鎌倉ですでに侍所とか公文所とか問注所とか政治機構の整備をはじめているのです。

つまり、1192年を幕府の成立とすると、ちょっと遅すぎる。

この時はすでに頼朝の敵であった平家も奥州藤原氏もいない。

政権はほぼ完成しつつある。

そうなると今日私たちが鎌倉幕府と呼んでいるものが、1192年以前になかったかというと、ちょっと無理があるというわけです。

それで1192年説は採用されていないわけです。

じゃあ、いつできたのかっていうのは、ちょっと難しくて、昔からいろいろな説があり、現在も定まっていません。

まあ、徐々にできあがっていったものですから、ピンポイントに何年ということなんて無理でしょう。

幕府や鎌倉政権の定義っていうのも、定まっていないのですから。

そうすると、難しい話はなしに、単純に頼朝が挙兵し、鎌倉入りした1180年こそ大きな画期ととらえるのが自然でしょう。

* * * *

さて、頼朝が挙兵したのは、1180年の8月のこと。

配流先の伊豆の韮山で、北条氏などの助けをえて挙兵するわけですが、伊豆から相模に移る段階で頼朝は早々と平家方の大庭景親、伊東祐親らの軍勢に負けてしまいます。

これは石橋山の合戦と呼ばれています。

最乗寺を出発した私たちは、一路車を南に向け、この石橋山古戦場を目指すことにしました。

◆ ◆ ◆ ◆

小田原市街地を通り抜けて、海沿いの国道135号線を走り、早川駅を通過して、しばらく走って脇道に入り、狭い道をくねくねと進むと・・・

こんな感じの駐車場がありました。

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看板が妙に立派な上、ずいぶんと広くて、かなり止められそうです。

でも、この日も止めていた車は私たちだけ。

他に観光客や史跡探索をする人もあまり見かけず、なぜこんな広い駐車場が整備されているのか、ちょっと不思議でした。

駐車場に車を置いて歩いていくと・・・

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なんとも長閑な風景。とにかく静かです。

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佐奈田霊社の入り口に来ました。

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駐車場の方から来ると、脇から入る形になります。

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これが佐奈田霊社。

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1180年、伊豆で挙兵した頼朝は、現地の平家方の代官を殺害して、初戦を勝利で飾るわけですが、いかんせん、兵力がそんなにない(300騎ほど)。

相模に移動しようとする途中、平家方の大庭景親(おおばかげちか)が前方から3000騎、後方から伊東祐親(いとうすけちか)の軍勢300騎に挟撃されてしまいます。

味方となってくれるはずだった、頼みの三浦一族は酒匂川の増水で、頼朝らと合流できず、頼朝らは敗れて散々になってしまいます。

これが石橋山の戦い

頼朝にとっては生涯痛い痛い思い出であったことでしょう。

この時の合戦で、味方の佐奈田与一義忠が戦死してしまいます。

与一は、敵将の俣野五郎景久を組み伏せたものの、血糊がついた刀が抜けずに、景久の家来に斬られてしまったといいます。

その与一を祀ったのが、この佐奈田霊社。

これもまた神社なのか何なのかいろいろ微妙なところがある一種の民間信仰のお堂といっていいでしょうね。

海を向こうに静かな時間が過ぎていきます。

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面白いのは、与一は「咳」や「声」を治す神さまなんだとか。

これは一説に与一が景久と組み合った時、与一は喉が悪くて味方に助けを呼べなかったとか、たんが絡んで味方の問いかけに答えられなかったからとかいうところから来ているそうです。

それで、今も「咳」とか「声」の神様としての信仰が篤いようです。

佐奈田霊堂の正面の参道をおりてすぐのところに与一が戦死した「ねじり畑」という場所があります。

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友達に「なんで『ねりじ畑』って言うの?」と聞かれましたが、わかりません。

でもおそらく、与一と景久が組み合って、ゴロゴロ上になったり、下になったりしたからでしょう。

さらにそこから歩いていくと・・・

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文三堂(ぶんざどう)なるお堂があります。

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こちらはちょっと荒れている様子。

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小さなお堂には、与一と一緒に戦死した家来の文三(ぶんざ)が祀られています。

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そんな頼朝のストーリーも今では夢のあと。

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今はこんな感じの長閑なミカン畑が広がります。

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景色もよく本当にいい場所でした。

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直下には東海道線の線路が通っています。

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ちょうど電車が通過していきました。

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電車のトンネルの上方に、石橋山古戦場の碑が立っています。

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「頼朝挙兵の地」って書いてありますが、正確には頼朝が挙兵したのは伊豆ですな・・・

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今は海を臨む実に静かなミカン畑。ここもまたいいところでした。

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ちなみに、この場所へは先に述べたように駐車場が整備されているので、車でアクセスできるわけですが、交通量の多い幹線道路から、脇道に入る必要があったり、全般的に狭い道(当然、離合は不可能)を走らなければならなかったり、農作業の車が止まっていたりと、車でのアクセスはあまりお勧めできません。

かといって、バスの便はあるものの、公共交通機関によるアクセスも、ちょっと面倒かもしれないし、歩くと結構あるしで、なかなか行くのが困難な史跡な気がします。

まあ、小型乗用車や軽自動車だったらいいかもしれませんが、どちらにせよ、運転があまり得意でない方は、ドキドキするような場所かもしれません。

私たちは大きな車だったので、ちょっと苦労しました。

伊豆山神社編へ続く)