休暇を利用して今度は
滋賀県に行ってきました。
滋賀といえば何をイメージするかと言われれば、昔は琵琶湖のある県くらいしか考えられませんでした。しかし、日本史を勉強してみるとこの滋賀の持つ歴史の膨大なことに驚きます。滋賀の歴史に関係する事件、史跡、人物、寺社などをキーワードにして挙げてみると、
壬申の乱(
大海人皇子、
大津宮)、
藤原仲麻呂の乱(
孝謙上皇、
藤原仲麻呂)、
比叡山延暦寺・
園城寺・
日吉大社(
最澄ら天台教学の僧や鎌倉新仏教の開祖たちと僧兵)、粟津の戦い(
源義仲)、
承久の乱(瀬田橋)、
六波羅探題滅亡(
北条仲時)、ばさら大名(京極道誉)、
安土城(
織田信長)、
長浜城(
羽柴秀吉)、
近江八幡(
豊臣秀次)、
彦根城(
井伊直政)、
大津事件(津田三蔵)などなど・・・
まさに日本の歴史の重要な画期がここで起こった、と言っても過言ではないでしょう。
滋賀はそれだけではなく、古来より
東海道・
中山道が通る交通の重要地であり、その地位は
東海道新幹線・
名神高速道路が通る現在も変わっていません。
とにかく有名な史跡が目白押しな滋賀には昔から行ってみたいと思いましたが、このたび機会があったので旅行に行くことにしました。
最初は滋賀まで自動車で行くつもりでしたが、それだと時間がかかるのと
疲労が蓄積して史跡見学が十分にできないと思いました。そこで新幹線で行くことにし、現地でレンタカーを借りて回ることにしました。
しかし、滋賀というのは広く、とても一回ですべてを見ることはできません。そこで今回は湖北を中心に見て回ることにしました。
出発点は
米原駅です。東京から
東海道新幹線のひかり号で2時間ほどです。
米原駅でレンタカーを借り、最初に向かったのは
米原市番場の
蓮華寺というお寺です。
このお寺は
聖徳太子が開創したと伝えられ、その後浄土系となったのですが、何よりもこのお寺が有名なのは正慶2年(1333)の
六波羅探題滅亡の舞台となったことです。
このお寺の歴史を簡単に説明すると・・・
[スポット] 蓮華寺(れんげじ)(滋賀県米原市番場)
山号は八葉山で浄土宗。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来の二尊。聖徳太子の創建と伝え、もともとの寺号は法隆寺であったという。鎌倉時代の建治2年(1276)に雷火で焼失し、草堂のみが残った。その後、弘安7年(1284)に一向という僧が地頭土肥元頼の帰依を受け、再興し、蓮華寺となった。一向は浄土宗の高僧・然阿良忠(ねんありょうちゅう)の弟子と伝える。正慶2年(元弘3年、1333)に元弘の乱で後醍醐天皇方についた足利尊氏によって六波羅探題が攻められると、時の探題、北条仲時(北方)と時益(南方)は北朝方の上皇・天皇とともに鎌倉へ落ち延びようとしたが、途中で時益は戦死し、仲時らも番場で京極道誉に進路をふさがれて、蓮華寺で自刃した。時の住僧が彼らの菩提を弔うため、自刃した北条方の将士430余名の名前を記して作ったのが「陸波羅南北過去帳」で現在、国の重要文化財である。また寺の裏には彼らの墓がある。戦国期にはたびたび兵火によって衰微したが、朝廷や浅井氏の支援もあり、再興し、永禄5年(1562)には時の正親町天皇(おうぎまちてんのう)の綸旨を得て、朝廷の祈願所となった。江戸時代になると寺は時宗の一派に組み込まれたが、昭和17年(1942)に浄土宗に復帰した。
(参考『国史大辞典』、『近江・若狭・越前寺院神社大事典』)
六波羅探題(ろくはらたんだい)というのは、
鎌倉時代、京都に置かれた
鎌倉幕府の
出先機関です。
後鳥羽上皇が挙兵した承久3年(1221)の
承久の乱で上京し、京都に駐留した
北条泰時・時房の両大将の立場と仕事がそのまま機関化したもので、その慣例から北方(きたかた)・南方(みなみかた)2名が置かれることが原則でした。
鎌倉末期に
後醍醐天皇による討幕運動が起こり、最初、
鎌倉幕府はこの動きを制圧していましたが、だんだんと西国などを中心に手が付けられなくなり、正慶2年(元弘3年、1333)に討幕軍を討つ
幕府軍の援軍として京都に上ったはずの
足利高氏(尊氏。当時は高氏)が後醍醐方に付くと、形成は一気に幕府に不利なものとなってしまいます。高氏は
六波羅探題を攻撃し、当時の両探題は幕府が擁立した
北朝方の
天皇や
上皇を奉じて鎌倉へ逃げようとしますが、この番場で反幕府勢力に囲まれてしまい、ここで
天皇や
上皇らを残して探題の将士は自刃してしまうのです。
番場宿の集落に入り、
北陸自動車道の高架をくぐるとお寺の門に着きます。自動車だと
米原駅からすぐです。
この勅使門の右側に広い駐車場があります。
「血の川」なるものがありました。
説明の札には次のように書かれています。
血の川
元弘三年五月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ち延びるために中山道を下る途中当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。時に元弘三年五月九日のことである。
太平記には腹を切って死んだ人々の血は、遺体の身を漬し、
黄河のようになってしまい、また遺体で寺の庭は満ちて、屠殺場のようになってしまったと書いてあります。
(『太平記』巻第9「番馬にて腹切る事」、『新編 日本古典文学全集』小学館)
想像するだけで恐ろしいことです。
お寺の中に入ります。拝観料は300円です。パンフレットをいただけます。
本堂は大きくて立派です。
本堂には江戸時代の
後水尾天皇による宸筆の勅額が掲げられています。
本堂からお庭を見ます。境内に入ると、300円の拝観料を払う箱があり、お金と引き換えにパンフレットをいただけます。それを持って本堂の脇の庫裏のような建物に行くと、本堂と宝物館(というか宝物室)を見学させていただくことができます。
案内の方が本堂や宝物室の鍵をあけてくださるのですが、どうもインターネットで調べる限り、現在このお寺は檀家さんが持ち回りで守っているらしい様子です。私たちが行ったときに案内してくれたお姉さんもきっと檀家さんなのでしょう。
本堂の中は大変広く立派でした。私はお寺のお堂は大好きなのですが、なかなか中に入る機会はありません。こうやって中に入って、本尊や仏像、位牌を間近で見れて本当に感動しました。
そうしていると、次に本堂裏手に宝物室を案内してもらいました。
宝物室にはいくつかの宝物や写真、それに文書の写しが展示してありました。
状態はあまり良いものではありませんでしたが、みんなで文書を読んでわいわいやっていると、お姉さんが「写真もとっていいですよ」と言ってくださりましたので、何枚か撮りました。
「陸波羅南北
過去帳」の写しもありました。本物はお寺の金庫にあるようです。
「陸」とは「六」のことです。
過去帳は死んだ人の記録というか、亡くなった日、俗名、戒名などを書き記したもので、どこのお寺や旧家にもあります。
この「陸波羅南北
過去帳」はそういう普通の
過去帳とは違い、自刃した
六波羅探題将士の菩提を弔うために作られたものです。
冒頭だけ見てみましょう。
(陸波羅南北過去帳)
敬白
陸波羅南北過去帳
元弘三稔〔癸酉〕五月七日、依二京都合戦破一、当君・両院関東御下
向之間、同九日、於二近江国馬場宿米山麓一向堂前一合戦、討死
自害交名、荒々注文事、
越後守仲時 〔二十八歳〕
桜田治部大輔入道浄心 〔四十七歳〕
同苅田彦三郎師時 〔三十四歳〕
高橋参河守時英 〔四十一歳〕
同孫四郎業時 〔三十四歳〕
同又四郎範時〔十九歳〕
同五郎盛時 〔二十一歳〕
同孫四郎左衛門元時 〔十七歳〕
隅田左衛門尉時親 〔三十七歳〕
同孫五郎清親 〔二十八歳〕
同藤内左衛門尉八村 〔四十二歳〕
同興一真親 〔十九歳〕
同四郎光親 〔二十六歳〕
同五郎重親 〔二十歳〕
(中略)
惣而於二当寺一討死自害人数肆佰三拾余人、雖レ然分明交名不レ知輩者不レ注レ之云々、
※〔 〕内は割書き
(「近江番場宿蓮華寺過去帳」(「群書類従本」竹内理三編『鎌倉遺文』41巻253頁-258頁)
【読み下し】
敬白
陸(六)波羅南北過去帳
元弘三稔(年)癸酉五月七日、京都合戦に破れるにより、当君(光厳天皇)・両院(後伏見上皇・花園上皇)関東御下向の間、同九日、近江の国馬場(番場)宿米山の麓の一向堂の前に於いて合戦、討死・自害の交名(きょうみょう)荒々注文の事、
(中略)
惣(そうじ)ては当寺(蓮華寺)において自害の人数肆(四)佰(百)三拾(十)余人、然りと雖(いえど)も分明の交名知らざるの輩(ともがら)はこれを注(しる)さずと云々、
【注釈】
敬白(けいびゃく)…敬って申し上げること。「恐惶敬白」のように手紙の末尾につける場合もあれば、願文や起請文の文頭につける場合もある。
稔(ねん)…年の意味。
癸酉(きゆう)…十干十二支の一つ。昔の年や日の表示の仕方。例えばいま「○月○日○曜日」というように。
京都合戦…足利尊氏による同日の六波羅探題攻撃を指す。
当君(とうきみ)…今の天皇の意。当君(とうぎん)も同意。
下向(げこう)…都から地方へ下ること。
交名(きょうみょう)…正式には「交名注文(きょうみょうちゅうもん)」。人名を書き連ねた文書のこと。
荒々(あらあら)…普通は「粗(あらあら)」か「粗粗」。「ざっと」「大まかに」「おおよそに」の意味。
分明(ぶんみょう)…はっきりとわかること。
云々(うんぬん)…文末につけて「…と云々」と読む。「…ということである」の意味。「しかじか」という読みもある。
【口語訳】
敬白
陸(六)波羅南北過去帳
元弘三年癸酉五月七日、(六波羅探題の軍勢が)京都の合戦に敗れたことにより、当君(光厳天皇)・両院(後伏見上皇・花園上皇)関東に御下りになる間、近江の国番場宿米山の麓、一向堂の前において合戦し、討死・自害した(者の)交名をおおまかに書き記す事、
(中略)
当寺で自害した人数は全部で四百三十余人、しかし確かな交名がわからなかった者はこれを記さなかったということである。
冒頭の「・・・事」で終わる部分は、その文章の内容を要約したもので「事書(ことがき)」と言います。
その事書の次に自害・討死した将士たちの姓名が書いてあるわけです。
しかし、実際に自刃したのは探題の北条氏とその被官たちがほとんどで、他の
六波羅探題の職員たちは状況が不利になるとみるや素早く後醍醐方・足利方に転身してしまったので、この
過去帳にその名前は数名を除いて見えません。
これは裏切りとも寝返りともとれるかもしれませんが、当時の人々にとってはそれが普通なことだったのでしょう。
本堂裏手には自刃した北条将士の墓があります。探題仲時の墓は別の場所にあるとか・・・
静かで良いところですが、こういったお墓を前にすると哀愁が漂います。
北条びいきなので、静かに手を合わせました。
ところでこの看板にみられるように、
米原という地名は「まいはら」か「まいばら」か定まっていません。
米原は現在は市制を敷いて
米原市(まいばらし)なのですが、以前は
坂田郡米原町(まいはらちょう)でした。
しかし、駅の名前は以前から
米原駅(まいばらえき)で
東海道新幹線の駅として
知名度があるので、「まいばら」の読みがわりと知られていたと思います。合併で
米原市(まいばらし)としたのはそのためです。
しかし、
北陸自動車道の
米原インターチェンジと
米原ジャンクションは、ともに
米原町時代に
自治体名にあわせて「まいはら」と読ませたので、現在も読みは「まいはら」です。
いろいろややこしいですね。
さて、
米原にはこういうお寺もあるので、
鎌倉幕府や
六波羅探題に興味がある方には一押しです。
静かで見どころがあり、本当に良いお寺ですよ。
私はこのお寺をあとにすると、賤ヶ岳へ向かいました。
(つづく)