類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

かんなみ仏の里美術館へ行ってきた2

しかし、桑原地区にはどうしてこのような古い仏像群があるのでしょうか。 薬師如来像の方は、かつてこの地にあった新光寺(廃寺)の本尊であったとされています。 十二神将薬師如来の眷属ですから、薬師如来十二神将は新光寺のものと考えられるでしょう。 一方、阿弥陀如来とその脇侍はどうでしょうか。 実はここに私の興味があるのです。 鎌倉幕府の半公式記録『吾妻鏡』の建仁2年(1202)6月1日条に次のような記事が見えます。 六月一日、甲戌、晴、遠州伊豆国北条に下向せしめ給う、夢想の告げ有るに依って、亡息北条三郎宗時が菩提を訪い給わんが為なり、彼の墳墓堂は当国桑原郷に在るが故なり、

[訳]6月1日、甲戌、晴れ、遠州北条時政)が伊豆国北条に下向された。夢のお告げがあり、亡くなった息子の北条三郎宗時の菩提をお弔いになるためである。彼の(北条宗時の)墳墓堂は当国桑原郷にあるためである。
IMG_5208.JPG 北条時政北条政子や執権北条義時の父です。宗時は時政の長子で、政子や義時の兄にあたります。治承4年(1180)8月、父時宗とともに宗時は頼朝の挙兵に従います。しかし、石橋山の戦いで頼朝軍は平家方の大庭景親の軍に敗れてしまいます。頼朝軍は散り散りになって逃げます。宗時は父や義時と別々の行動をとって逃げましたが、このあたりで平家方の軍に討ち取られてしまいます。 『吾妻鏡』に出てくる「墳墓堂」(※1)とは宗時を弔うために建てた御堂と考えることができます。桑原の地に伝わった阿弥陀三尊はその墳墓堂の本尊と考えられています。時政が亡き息子の供養のために建立した仏像がいままで大切に守られてきたことは、何か言い知れぬ想いを感じました。800年以上、桑原の人たちが守り、桑原の人たちを守り続けていた仏様なわけなのですね。 その桑原の集落は今は静かな山村といった感じです。 IMG_5211.JPG 美術館のすぐそばには、仏像群がかつて安置されていた桑原薬師堂がある長源寺があります。 IMG_5216.JPG 墓地へと続く裏山を登ると桑原薬師堂があります。 IMG_5217.JPG 中はもぬけのからでした。こちらに安置されていた姿も一度見ておくべきでした・・・ IMG_5220.JPG 薬師堂からは仏像群が移った美術館がよく見えます。 IMG_5218.JPG (つづく) →→かんなみ仏の里美術館へ行ってきた3 ※1 「墳墓堂」が実際どのようなものであったかは正確にはわかっていませんが、『吾妻鏡』には頻繁に出てきます。よくはわかりませんが、おそらく墓と供養のための仏堂をあわせたようなものと推測できるのではないでしょうか。