類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

宗吾霊堂へ行ってきた4

<ここまで> 宗吾霊堂へ行ってきた1 宗吾霊堂へ行ってきた2 宗吾霊堂へ行ってきた3 6時までは東京へ戻らなければならなかったので、宗吾霊堂を見た後は、宗吾参道駅へ戻り、京成線で帰りました。くたびれていたのですが、やってきた上野行きの特急はいっぱいで座れませんでした。 そこで京成佐倉で待っていた西馬込行きの快速電車に乗り換えることにしました。 こちらはガラガラで、すぐに座れました。 この電車は京成津田沼まで各駅停車なのですが、どうせ帰り道は居眠りしてますし、その上、都営浅草線に直通するため、押上に出てくれます。 押上で半蔵門線に乗り換えられるので、歴博の帰り道はいつもこの手段で帰ってきます(快速はだいたい京成佐倉から1時間に3本くらいの割合で出ています)。 押上で乗り換え時、ちょっと出てみて、これを見てきました。 DSC_0033.JPG 出来たばかりのスカイツリー。もうすぐ開業するとのことですが、新しくできたこのタワーは果たして東京のどんな未来を見つめていくのでしょうね。 さて、宗吾霊堂は新たな発見いっぱいの旅でした。 ここでは佐倉惣五郎宗吾霊堂に関して思ったことを書きたいと思います。 佐倉惣五郎の直訴が事実であるかどうかについてですが、『国史大辞典』の「義民伝承」という項目に、次のような記述がありました。少し長めですが、気になった部分のみを下に引用します。 「しかも、事件の内容はなるべく歴史上から抹殺してしまおうという為政者側の意図によって、残存文書史料では、事件の内容そのものも、指導者や犠牲者の業績も、不明であるかまたは多かれ少なかれ歪曲されているのが通例である。ところが事件の当事者となった村人たちは、子から孫へと口伝の形でそれを語り残したのであった。そこに百姓一揆研究のうえにもつ義民伝承の重要性がある。しかし反面、各地に残る義民伝承が、百姓一揆や指導者の業績について、必ずしも正確な史実を語り伝えているとは限らず、さまざまな矛盾や自家撞着を含んでいる、ということもある。為政者の厳しい取締りの目を逃れて秘密のうちに伝えたために、内容が変容された場合もあるし、また長い年月の間に農民の願望が、一人の義民の業績に名をかりてつぎつぎに架上累加され、現実ばなれしたものになった場合もある。」 歴史は基本的に勝者の歴史であることは何となくわかると思います。 だから権力者の側によって事実が抹消された可能性も無くはないということですね。 一方で民衆の側の記憶も果たして正確であるかどうか。 両方を注意深く見なければ事実は探れないですし、注意深く見た結果、何もわからないということにもなります(ただ、無理やりな結論を史実にするよりは、わからないほうがずっとマシですが)。 このようなことから考えるに、単に史料がないからと言って、虚実と決めつけてしまう自分の態度も問題だと思いました。佐倉惣五郎の話は、江戸時代の時点ですでに多くの書物に書かれ、また寛政3年(1791)の140回忌には堀田正順が惣五郎に徳満院の号を贈り、口ノ明神に碑を建てており、東勝寺の墓前には石塔を建てています。文化3年(1806)には堀田正時が惣五郎の子孫に五石余の田地を与えています(もっとも、惣五郎の死から百数十年も経っているというところにも注目しなければなりませんが)。 こういったことから、惣五郎の話がすべて事実ではないにしても、何らかの素材があって形成されていったことは間違いないでしょう。そして、そこから派生して信仰(御霊、あるいは祟り神、厄除けへの転化)が生まれていったわけですね。 自分は江戸時代の歴史にほとんど詳しくないので、ふと足を向けて宗吾霊堂から、このようなことをいろいろと知ることができて、収穫の多い日となりました。また歴博に言った折には、佐倉の周辺を探索したいと思います。 (終わり) ※一部を追加して書き直しました。