類聚メモ帳PART2

更新はすごい不定期です。

宗吾霊堂へ行ってきた1

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(歴博)で、現在開催中の「都市を描く-京都と江戸-第1部「洛中洛外図屏風と風俗画」」を見に行ってきました。正直言って歴博へ行くのは遠いですし、大儀です。そこで、ただ行くからにはただ歴博だけというのはもったいない気がしてきて、ついでに近くにある宗吾霊堂にも行くことにしました。 宗吾霊堂に行くには、京成線の宗吾参道という駅で降ります。ちなみに駅の所在地は千葉県印旛郡酒々井町ですが、宗吾霊堂成田市にあります。 DSC_0032.JPG これが宗吾参道の駅です。てっきり宗吾霊堂門前町的なものが、駅から続くのかと思ったら、周りは住宅地で何もありません。 宗吾霊堂というのは、江戸時代のいわゆる義民、佐倉惣五郎を祀る寺院です。 一般には佐倉宗吾とも通称されます。佐倉惣五郎について簡単に説明すると次の通りになります。 江戸時代、堀田領(下総・佐倉藩)公津村(こうづむら)の名主(※1)であった佐倉惣五郎は、領主である堀田氏の暴政に苦しむ農民たちを救うため、藩の役人に窮状と減税を訴えましたが、聞き入れられず、江戸に上り、将軍家側用人に直訴しますが、やはり聞き入れられません。惣五郎は最後の手段として時の将軍徳川家綱への直訴を企てます。いったん故郷に帰った惣五郎。村人や家族と涙ながら別れ、再び江戸へと向かうのでした。 承応元年(1652)12月20日、上野の寛永寺へ参拝しに来た家綱に、惣五郎は直訴します。結局、この訴えは聞き入れられて、幕府は佐倉藩に減税を命じ、佐倉藩の農民たちは救われたのでした。しかし、直訴は当時、死罪となる御法度であったため、惣五郎とその家族は磔にされ、処刑されてしまうのでした・・・ というお話です。 ところがこのお話、実は言い伝えに過ぎず、一次史料ではこの出来事について書いたものが何もないのです。 つまりこの惣五郎の直訴は事実かどうかの証拠がないのです。 将軍への直訴事件というからには、結構な一大事。それが何も記録に残されていないというからには少し怪しい気はしますが・・・(※2) しかし、重要なのは惣五郎の伝説が事実か事実ではないか、ではなく、なぜここまで惣五郎の伝説がもてはやされたか(惣五郎の話は歴史学上というよりも、ずっとお芝居や歌舞伎で有名なのです)、そして惣五郎に対する信仰の根強さでしょう。 私はずっと宗吾霊堂に関する話を聞いてから、その信仰に興味を持ってきました。 今はだいぶ寂れてしまったらしいのですが、その片鱗が残っていないかを確かめんと、宗吾霊堂に繰り出すことにしました。 ※1 江戸時代、村落にあって農民の身分でありながら村落行政を担当する者のことを総称して村役人と言いました。村役人は大庄屋、割元名主(わりもとなぬし)、検断などと呼ばれていて、宗吾霊堂でもらったパンフレットでも惣五郎は割元名主であったと書いてあります。もちろん、こういった村役人は普通のお百姓さんがなるのではなく、ある程度裕福ないわゆる豪農や、由緒のある格式の高い家、つまり中世以来の武士の系譜をひくような出身の者がなりました。彼らは領主から苗字帯刀を許される立場にあり、惣五郎も木内惣五郎が本名であったとされています。 ※2 なお、この事件について『千葉県の地名』(日本歴史地名大系12、平凡社、1996年)の「東勝寺」の項目では次のように書いています。以下、それを引用します。「惣五郎事件は実録本「地蔵堂通夜物語」、講釈「佐倉義民伝」、歌舞伎「東山桜荘子」などによって伝説化しているが、同年に公津村が台方村などに分村したこと、年欠ではあるが公津村の名寄帳(東勝寺文書)に惣五郎という高持百姓がいたこと、万治三年(一六六〇)に藩主堀田正信が改易されたこと、同年の年貢割付状(郷部区有文書など)で藩の年貢が高かったことを幕府が認めていることなどが確認されており、事実であった可能性が高い。」